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2019年08月24日22:14

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猪木とビンス(506)最終章

馬場の率いる全日本プロレスは日本テレビが最初から放送に付き、力道山家(百田家)も全面協力。力道山家は63年に力道山が亡くなった時、豊登、芳の里、遠藤幸吉といった日本プロレスに新たに役員に就任した幹部達から「力道山先生の忘れ形見、義浩君と光雄君が成人になるまで会社の方は我々に任せてもらいたい」と敬子未亡人に申し入れ、別法人を登記しています。

結局その約束は反故にされ、日本プロレスの「ダラ幹」が会社の実権を握り、次男光雄は70年に日本プロレスに入門、デビューしましたがこの時は退団していました。

そんなことから敬子未亡人と馬場は利害が一致して協力関係となり、力道山死後、力道山家に保管してあったインターナショナル王座のベルトを寄贈してもらい、新たにこのベルトを「世界ヘビー級選手権」として復活させ、馬場が「世界の強豪を相手に十番勝負を行い、然るべき成績を残した暁には、力道山先生のベルトを巻く」と表明しています。

全日本プロレスの「旗揚げジャイアント・シリーズ」は10月21日、町田市体育館で旗揚げ前夜祭を行い、日本テレビが生中継。日本プロレス時代の「金曜午後8時」は日本テレビが放送打ち切り後、後発のNETが放送に乗り出した為、毎週土曜日20時〜20時55分の時間帯で放送されました。

旗揚げシリーズにはブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、フレッド・ブラッシー、ジェリー・コザックら大物外国人が集結、外国人メインブッカーとなったドリー・ファンク・シニアも後半戦に特別参加しています。

外国人選手は一流どころを揃えましたが、日本勢は前回書いたように馬場含めて大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダ、佐藤昭夫、百田光雄の6人と男子4団体中、一番脆弱であり、当時は最低でもタッグマッチを入れて6〜7試合組まなければ興行が成り立たない時代でした。

日本プロレスを退団した藤井誠之が復帰して参戦しましたが戦力不足。(元国際プロレスのヤス・フジイ=藤井康行とは別人)

吉原はここで馬場の要請を受けてサンダー杉山を金銭トレード。さらに鶴見五郎、デビル紫をレンタル参戦させています。まさに「敵に塩を贈る」

杉山はプロレスラーの他にタレント活動、また名古屋に本社がある医薬品メーカー「スズケン」の広報部長と副業を持っており、試合出場もフルタイムではなくレスラー専業である他の国際の所属レスラーの中でも浮いた存在でした。日本テレビマネーがバックにあるだけにこの移籍は吉原、杉山とも願ったり叶ったりでしょうか?

吉原の恩義に対し、見返りとして馬場は自ら国際プロレスの興行に参戦してお返し。国際プロレスの「ビッグ・ウィンター・シリーズ」の11月29日、東京体育館と翌30日、水戸市茨城県スポーツセンターの2大会に友情出場することになりました。

この72年11月のビッグ・ウィンター・シリーズはWWA(インディアナポリス版)世界タッグ王者チームであるディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組の「生傷・粉砕コンビ」"ブル・クラ"が国際プロレスに初登場。

これより3年前の69年8月には日本プロレスに2人揃って来日し、8月11日、札幌中島スポーツセンターで馬場&猪木のBI砲を破り、インターナショナル・タッグ王者チームとなっています。(2日後の8月13日、大阪府立体育会館でのBI砲とのリターンマッチに敗れ王座転落、2日天下に終わる)

BI砲を破ってインターナショナル・タッグ王者チームとのなったのは他にウィルバー・スナイダー&ダニー・ホッジ組、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組のザ・ファンクスしかおらず、世界の超一流の喧嘩屋を相手にストロング小林、グレート草津、マイティ井上らがどのように闘うか!?大きな注目を集めていました。
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