馬場の「ミステリアス・パートナー」は10月5日にUWFを退団したラッシャー木村でした。この日、代々木上原にある自宅から「小田急線で松戸まで来た」というR木村は試合前に報道陣の取材に応じ、「初めて自分の意思で(団体移籍を)決めました。」とコメントしています。
R木村は力道山没後の64年、大相撲宮城野部屋から日本プロレスに入門、65年4月2日、東京・渋谷リキ・スポーツパレスで高崎山猿吉(魁勝司、北沢幹之)を相手にデビュー戦を行いました。
この年暮に日本プロレスの社長であった豊登が公金横領の疑いで社長の座を追われると豊登は新団体「東京プロレス」の設立に動きます。R木村は豊登に目をかけてもらっていたことから「お前はワシに追いて来てくれるよな」と言われ66年4月には東京プロレスに移籍。
東京プロレスは日本プロレスの妨害工作等によりシリーズの大会中止が頻発し年内2シリーズを行ったのみで資金ショートを起こし自力での興行開催が困難になりました。
同年10月、日本プロレスの取締役営業部長だった吉原功がリキ・スポーツパレスの売却問題で豊登の後任社長の芳の里、遠藤幸吉と対立し日本プロレスを退職。在米フリーのヒロ・マツダと共に「国際プロレス」を設立。
国際プロレスはマツダと同じく在米のミスター鈴木(マティ鈴木、鈴木勝義)、日本プロレスから引き抜きしアメリカ修行に出していた草津清正(グレート、本名正武)、杉山恒治(サンダー)しかプロパー選手がおらず、東京プロレスに合同興行の話を持ちかけ、67年1月5日、大阪府立体育会館で東京プロレスとの合同により旗揚げ「新春パイオニア・シリーズ」を開幕させました。
しかし、この合同興行路線は僅か1シリーズで決裂し、東京プロレスのエースだった猪木は北沢、永源遙、柴田勝久らと日本プロレスヘ復帰。齋藤昌典(マサ)は海外へ。その他のメンバーは国際プロレスが引き取る形になりました。
7月21日、名古屋・金山体育館で開幕した第2弾「パイオニア・サマー・シリーズ」では覆面太郎(ストロング小林)、井上末雄(マイティ)がデビュー。このシリーズ、R木村の名前がありませんでした。
これはR木村が「プロレスに対する自信を失って」故郷の北海道ヘ戻っていた時期でした。実際は猪木と吉原の金銭を巡るゴタゴタを目の当たりにして嫌気が指したものと思われます。
TBSテレビの放送がつくからと吉原社長に説得されて国際プロレスに戻ったR木村は69年のアメリカ修行、72年のヨーロッパ修行を経て、メインイベンターの一角を担い、S小林退団後の75年4月19日には札幌中島スポーツセンターでマッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得、以後国際プロレス崩壊まで6年4か月に亘りエースの座に君臨していました。
81年8月9日、北海道・羅臼町グラウンド大会で国際プロレスは興行活動を停止、R木村はアニマル浜口、寺西勇との「はぐれ国際軍団」として新日本プロレスのリングに参戦致しますが、これは吉原社長の方針に基づくものでした。
新日本での国際軍団のポジションはヒールで猪木との1対3変則タッグ等屈辱的なマッチメイクも呑み、黙々と自分の与えられた役割を全うしています。
83年5月、浜口が国際軍団から離脱して長州力と行動を共にし、残った寺西も小林邦昭のパートナーとして維新軍として活躍。1人になったR木村は8月の社内クーデターの責任を取らされ、新日本プロレスを退職していた新間寿に声をかけられ新団体UWFの旗揚げメンバーに。
エース前田日明を補佐する重鎮として活躍しましたが、新日本プロレスから藤原喜明、高田伸彦が移籍、さらにスーパー・タイガー(佐山聡)、木戸修、山崎一夫も加入し新日本プロレスの道場での練習をさらに先鋭化させた格闘技嗜好の強いプロレスへと変化。「プロレスに対する方向性の違い」を理由に剛竜馬と共にUWFを退団したものでした。
入門した日本プロレスは別にしてその後の団体移籍はいずれも「人に言われて」のものであったことからキャリア19年、43歳にして初めて自分の意思により全日本プロレスへの参戦を決めたことになった訳です。
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