喧嘩番長ディック・スレーターは83年5月「グランド・チャンピオン・カーニバルPART�供廾瞥茖映�1か月ぶりの来日。ファンク・ファミリーの一員として全日本プロレスのレギュラー外国人メンバーだっただけにこれだけ来日間隔が空いてしまうのは交通事故の後遺症の影響はあるにせよ寂しい限りでした。
スレーターは82年「世界最強タッグ決定リーグ戦」ではWWFのスケジュールを優先させて来日をキャンセルしたジミー・スヌーカの代打としてハーリー・レイスと組んでエントリーしましたが、シリーズ最終戦の12月13日、蔵前国技館での最終公式戦で馬場&鶴田組に敗れ、優勝の目はなくなりました。
83年の来日時は6月3日、旭川市総合体育館常盤分館で全日本プロレス初参戦となったロディ・パイパーと組んで馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦しパイパーが鶴田にフォールを奪われ敗退、今回も鞭打ちから来る首の強烈な痛みと痺れが起き、ベストコンディションではありませんでしたが7月25日、福岡スポーツセンターで天龍のUNヘビー級王座に挑戦が決定。同王座への挑戦は82年5月28日、旭川市総合体育館常盤分館で当時の王者、鶴田に挑戦して敗れて以来2年2か月ぶり。NWA世界ヘビー級王者の次期候補と言われて久しい実力者だけにキャリアも実績も下の天龍には負ける訳にはいきません。
19年1月に71歳で亡くなったロシアの流血怪人アレックス・スミルノフは2月のエキサイト・シリーズ以来4か月ぶりの来日。前回の来日では2月28日、豊橋市体育館でブルーザー・ブロディとタッグを組み、馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦して敗退。このシリーズ、タイトル挑戦のチャンスは与えられず。国際プロレス崩壊後、81年10月に全日本プロレスに移籍して以来、82年3月に参加した第10回チャンピオン・カーニバル以外は何らかのタイトル戦線には絡んでおり、ここで格落ちとなった感は否定出来ません。
このシリーズでは7月31日、蔵前国技館ではUNヘビー級王者の天龍とノンタイトルながらシングルマッチでの対戦が発表されており、全日本プロレスのレギュラー外国人のポジションを奪われないように結果と内容が求められます。
野生児ロジャー・カービーは80年8月の「サマー・アクション・シリーズ2」にザ・デストロイヤーと同じマスクと赤のお揃いのコスチュームを身に着けたザ・クルーザーとして来日して以来約4年ぶりの来日となりました。
素顔での来日は79年7月の「サマー・アクション・シリーズ」以来5年ぶり。いぶし銀のような渋いラフファイトは健在で、メイン戦線を引っ掻き回すかが注目の的でした。
全日本プロレス初参戦となるジョニー・マンテルは元NWA世界ジュニア・ヘビー級王者ケン・マンテルの実弟と言われており、78年8月、新日本プロレスの「ゴールデン・ファイト・シリーズ」に初来日、79年2月に再来日、80年6月の3度目の新日本プロレスへの来日時7月2日、札幌中島体育センターで藤波の保持するNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座に挑戦が決まっていましたが、藤波が右手薬指を骨折した為、タイトル戦はキャンセルされ、藤波はベルトを返上しています。
それから紆余曲折あり、あの時Jマンテルが挑戦する予定だったNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座は全日本プロレスの所管タイトルとなり、王者にはマイティ井上が君臨しておりました。7月31日、蔵前国技館ではM井上の保持する同王座に挑戦が決定。ベルト初挑戦が流れて4年もの歳月が経ってから別の団体で挑戦が決まったというのも感慨深いものがあると思います。
「馬場ファミリーの一員」カール・フォン・スタイガーは81年5月の「スーパー・パワー・シリーズ」以来3年1か月ぶりの来日。カービー、スタイガー共に全日本プロレス黎明期からレギュラー参戦しているバイプレーヤーでしたが、来日間隔が空いてしまうのは時代の流れでやむを得ずか…。
初来日のヒューゴ・サビノビッチはプエルトリコのカルロス・コロンの推薦で来日が決まりました。レスラー以外にもマネージャーやテレビコメンテーターとして才能をフルに発揮していました。80年に全日本女子プロレスに初来日、女版スタン・ハンセンと言われ人気の高かった"ザ・ダラス・カウガール"ウェンディ・リヒターと結婚し、日本にも多数くいたリヒターの男性ファンを大きく落胆させています。
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