全日本プロレスの84年グランド・チャンピオン・カーニバルPART�矯能�戦6月14日、後楽園ホール大会と同日同時刻開催となった新日本プロレスの蔵前国技館IWGP優勝決定戦は前83年大会の猪木、ハルク・ホーガンのアックスボンバーに場外失神KO負けの余波を受けて「猪木、1年越しのリベンジ成るか!?」と大きな盛り上がりを見せ13,000人(超満員)発表の大観衆が詰めかけ、さらに入りきらなかった300人のファンに国技館の敷地内で大型スクリーンによるクローズド・サーキット(今で言うライブビューイング)による同時中継が行われました。
リーグ戦を首位通過した猪木が前年度覇者、ホーガンに挑んだ一戦は17分15秒、両者リングアウトの引き分け。ホーガンは「ディフェンディングチャンピオンである自分の『防衛』」を主張しましたが、これはタイトル防衛戦ではなく優勝決定戦であるとして再試合が行なわれました。
再試合も猪木がホーガンに足4の字固めをかけたままエプロンにもつれ、2分33秒、両者エプロンカウントアウトの裁定に。再々試合となり場外乱闘の際、長州が乱入、先ず猪木にリキラリアットを見舞って猪木をダウンさせ、次いでホーガンにもリキラリアットにいきましたがホーガンも咄嗟にアックスボンバーを出して相討ち。
ホーガンがダウンしている間に坂口以下セコンドが倒れている猪木をリング内に押し上げてリングインさせ3分11秒、猪木のリングアウト勝ち。猪木の優勝が決まりましたが、納得のいかない結末に観客が激怒。「長州出て来い」と大騒ぎとなり、国技館の施設を毀損させる暴挙に出た者もいました。新日本プロレスは年間最大の大一番の興行でミソを付けた形となり、信用は失墜。
全日本プロレスと新日本プロレス興行の業務提携の話も新日本プロレスにとっては頭の痛い話でしたが、新日本プロレスにさらに追い打ちがかけられてしまいました。
6月27日、東京・九段のホテル・グランドパレスで記者会見が行われ、藤原喜明と高田伸彦が新日本プロレスを退団してUWFへの移籍を発表。藤原は2月3日、札幌中島体育センターで試合前の長州を襲撃。「テロリスト」としてポジションが一気に上がり、メインイベンターとして活躍するようになっており、高田は若手期待の星としてタイガーマスク退団後の新日本プロレスジュニアを牽引していく存在に成長。
1月のWWFジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦に抜擢され4月19日、蔵前国技館で行われた正規軍vs維新軍5対5勝ち抜き戦では次鋒として登場、敗れはしましたが谷津嘉章相手に大健闘、次期「サマー・ファイト・シリーズ」では7月20日、札幌中島体育センターでダイナマイト・キッドのWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦が発表されていました。
このタイミングでの藤原、高田のUWF移籍は新日本プロレスに大きなダメージを与えてしまいました。
全日本プロレスのシリーズからプエルトリコに戻ったプリンス・トンガは6月23日、バイヤモン・カンチャ・ペビン・セスペロ(観衆5,300人発表)で現地でのリングネーム、キング・トンガとしてカルロス・コロンとタッグを組み、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ組のPWF世界タッグ王座に挑戦。
体格的に劣るコロンが超獣コンビに狙い打ちにされ、ブロディのキングコング・ニードロップ、ハンセンのウェスタン・ラリアットを立て続けに喰らって戦意喪失。6分49秒、試合放棄となりハンセン&ブロディ組が初防衛に成功しています。
新日本プロレスが内部分裂を起こす一方で84年上半期の全日本プロレスは鶴田のAWA世界ヘビー級王座獲得、さらに王者としての北米サーキット、天龍のUNヘビー級王座獲得など明るい話題が多く、順風満帆な半年間と言っていいですが、馬場が負傷によりデビュー戦以来続いていた国内試合連続出場記録が3,711試合でストップ。鶴田とのコンビで通算9年3か月という長きに亘って保持して来たインターナショナル・タッグ王座を返上するなど、世代交代も進んでいきました。
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