セントルイスでの興行に参加したメンバーを見て気付かれた方もいるかと思いますが、AWAのサーキットメンバーが数多く出ていました。
ビンス・マクマホン率いるWWFの全米マーケット侵攻開始に伴い、NWAとAWAが手を組んでこれを迎撃したというのが「史説」となっていますが、これには馬場が大きく関与しています。
馬場はビンス・シニア時代の61年、アメリカ東部マットで活躍、先代を「儲けさせてやった」という自負を持っており、息子のビンスの手により、自分の大切な仲間のプロモーター達が痛めつけられているのを見てはおけませんでした。
馬場はビンスを「あの小僧」と呼んでいた位で、業界の暗黙のルールを破った人間を許すことが出来ず、ハルク・ホーガンを引き抜かれて馬場に救援を仰いで来たAWAのオーナー、バーン・ガニアに救いの手を差し伸べ、NWAとAWAを繋ぐパイプ役になりました。
以前にも書きましたがNWAとAWAはオポジションの関係にあり、NWAのメンバーでガニアと交流のあったプロモーターはニューヨークという特別なマーケットを持っていたビンス・シニアと「中立国」的立場にあったカナダ・トロントのフランク・タニー位でした。
タニーはトロントが優良な地盤であり、客入りも良かったので財政面に余裕があったせいか業界では人格者として一目も二目も置かれていた為、基本的には「全方位外交」として知られていました。
WWWFがWWFに改称したばかりの79年3月26日にはトロントのメープルリーフ・ガーデンでAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルとWWFヘビー級王者ボブ・バックランドのダブルタイトルマッチを開催(40分両者リングアウト)。
またNWA内での力も強く、77年2月6日にはメープルにてハーリー・レイスがテリー・ファンクを14分40秒、フロント式インディアン・デスロックで破りNWA世界ヘビー級王座が移動。当時のNWAでベルト移動劇の起きる興行を主催出来るということは力を持っていなければ出来ない話でした。
日本ではタイガー・ジェット・シンがトロント在住でタニーの所をホームリングとしていた(シンは地元トロントではベビーフェイスであり、ヒールとして試合をしていた日本ではその活躍が報じられることはなかった)こともあり、新日本プロレスとの交流が深く、初期のIWGP実行委員会に名を連ねていました。
しかし80年の6月29日、馬場、鶴田がトロントに遠征して来た時にはブルーザー・ブロディ、スコット・アーウィン組とのインターナショナル・タッグ選手権試合を組み、日本テレビが収録、放送。この時はNWAのジム・クロケットからのブッキングでリッキー・スティムボート、ジミー・スヌーカらミッドアトランティック勢が試合に出ており、その流れでこの年11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはリッキーの全日本初来日が実現。
翌81年5月にはリッキーのライバルであるスヌーカも全日本に来ています。
有力者のタニーでしたが、前83年5月、新日本プロレスのIWGPに実行委員として来日、5日の新宿京王プラザホテルでのレセプション、6日、福岡スポーツセンターでの開幕戦に立会人でリングに上った後、夫人と共に香港へ観光旅行に出かけ、現地で心臓発作からの急性心不全で不帰の人となってしまいました。
ガニアにはアメリカにはもはや味方はおらず、馬場に協力を依頼するに至った訳であります。
馬場は「鶴田がAWA世界ヘビー級王者として北米サーキットを行うこと」を見返りにNWAとAWAを繋ぎました。
馬場の政治力を持ってすれば、鶴田を自分と同様、日本国内で短期間のNWA世界ヘビー級王者にするのは「朝飯前」だったと思いますが、世界最高峰のNWA世界ヘビー級王者はプロモーター特権で「自分だけ」に固執していたように思います。(ある非公開サークルでこのことを書いたら「馬場さんはそんなことはないと思いますよ。鶴田が善戦マンだったり長州以下ジャパンプロレスが来てその機会がなかっただけ」と反論がありました)
鶴田はAWAですが、その代わり自分がNWA世界ヘビー級王者の時出来なかった「北米サーキット」を鶴田に経験させた、というのが私の見解です。
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