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2018年06月27日08:02

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(389)

ジャパンプロレスは大塚直樹前社長が新日本プロレスを退職、加藤一良、伊藤正治ら腕利きの営業マンを引き連れて猪木から休眠会社として登記してあった新日本プロレス興行株式会社を譲受する形で独立してから85年の暮で2年が経過しました。

会長には君津市で家具の会社を経営する竹田勝志が就任しスポンサーとなりました。当初は新日本プロレスから年間50試合の興行を買い、主催することで合意。

84年1月6日、後楽園ホール大会を主催したのを皮切りに後楽園ホールを中心として、3月21日には前年暮に開館した大阪城ホールでの興行を開催。

「ウチは新日本と名前はついているが子会社ではなく、純然たる興行会社、他の団体の興行も買う」と大塚は公言しており、4月1日には後楽園ホールで全日本女子プロレスのミミ萩原引退興行を開催したあたりから話が変わりました。

前83年8月に猪木の個人事業であるアントンハイセルへの資金流用疑惑から発生した新日本プロレスの社内クーデターからタイガーマスク(佐山聡)が「引退」を発表、翌84年にはUWFが旗揚げされる運びとなり、新日本プロレスは内部分裂を起こしていました。

そこに目をつけたのが馬場であり、馬場は大塚に「ウチの興行も買ってみないか」と打診。大塚も新日本プロレスがいつ手のひらを返してくるかわからないこともあって馬場の申出を快諾。6月22日、全日本プロレスと新日本プロレス興行が業務提携を結ぶ旨の記者会見を行い、8月26日、田園コロシアムで提携第1弾として全日本の大会を新日本興行が主催することが発表されました。 

これに激怒したのが新日本プロレスの坂口征二副社長で坂口は大塚に「全日本プロレスと手を切れ、全日本の興行を買うならウチの興行は売らない、全日本を取るか、ウチを取るか、考えて返事しろ」と通告。

しかし大塚は馬場を選択、84年のブラディ・ファイト・シリーズを最後に新日本プロレスとの関係を解消、大塚は「ならばこちらも自分に懇意の新日本プロレスの選手を引き抜いて、全日本プロレスのリングに上げる」と報復宣言。同シリーズ最終戦の翌9月21日、長州、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍5人が新日本興行へ移籍、25日には永源遙、栗栖正伸、保永昇男、新倉史裕、仲野信市が移籍会見。27日にはアメリカで活躍していたキラー・カーンが移籍、さらにアメリカにいたマサ齋藤、若手の笹崎伸司、レフェリーのタイガー服部も移籍しました。

さすがに「新日本プロレス興行」の商号はもはや使うことは出来ず、社名をジャパンプロレスに改称。長州の個人事務所としてリキプロダクションを作り、新日本、全日本、UWFに次ぐ第4の男子プロレス団体としての体をなしていきました。

12月4日、高松市民文化センターで旗揚げ興行を開催、ジャパン勢の長州、谷津、浜口は全日本プロレスの12月12日、横浜文化体育館大会についに参戦、石川敬士、グレート小鹿、大熊元司組を撃破。翌85年1月2日からジャパン勢が本格的に全日本プロレスのリングに参戦開始。

長州は「鶴田、天龍とイデオロギーの闘いをしてみたい」とコメントしています。谷津は「我々はロック、全日本プロレスはワルツ」と全日本プロレスのスピードのなさを揶揄するような発言をしています。

ジャパン勢の参戦により、全日本プロレスのリングはシリーズの参加選手が40人以上に膨れ上がり、1大会あたりの試合数は10〜12試合に増加、6人タッグマッチが3試合位組まれることか普通になりました。

全日本プロレスで対ジャパンの矢面に立ったのは天龍で、天龍と長州の抗争が主軸となりました。

長州らの登場は全日本プロレス活性化に繋がりましたが、日本人対決についてはいい試合が多いが、長州は外国人相手ではいい試合が出来ない、という評価もされ、新日本プロレス時代から言われていた外国人対決に課題を残したと言えます。

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