選手、フロント総勢36人が大量離脱した84年の新日本プロレスでしたが、85年は「新日本プロレス元年」をキャッチフレーズに新たなるスタートを切りました。
スタン・ハンセンに去られた後の82年も「ストロングスタイル元年」をスローガンに掲げており、まさに出直しの1年でした。
新春黄金シリーズは1月1日の元日、後楽園ホールで開幕。4年連続の元日興行となりました。メインイベントは先シリーズ、頭部負傷を理由に1試合のみで帰国したハルク・ホーガンが登場。ワイルド・サモアンと組んで猪木、藤波組と前年11月16日、川崎市体育館の再戦を行いました。
試合はこの日、2人から4人に増殖したストロング・マシン軍団が乱入してノーコンテストになっています。
マシン軍団はこのシリーズから4号までが登場。1号は平田淳嗣、2号は力抜山(梁承揮)でしたが3号は元国際プロレスのヤス・フジイ(藤井康行)、4号はハワイ在住のヒロ佐々木なる日系人レスラーと言われましたが、4号に関しては試合経験が浅いところから、タッグワークでボロが出ないように1号がリードしていました。
1月4日、富士市吉原体育館から新日本プロレス顧問に就任した吉原功、大剛鉄之助ラインでキングコング・バンディが初来日。
バンディは長くテキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックの下で試合をし、82年6月6日、テキサススタジアムでのフリッツの引退試合の相手を務めました。
また、翌83年6月17日、全日本プロレスの馬場、鶴田らがダラスに来た時、リユニオン・アリーナで馬場のPWFヘビー級王座に挑戦し敗退。その体格とファイトスタイルは馬場好みと思われ全日本プロレスへの参加が有力かと思われました。
バンディは84年にテキサスを離れ、AWAで試合をしていたところ、大剛の一本釣りにより新日本プロレスへの参戦が決まりました。
1月25日、徳山市(周南市)体育館で猪木がアブドーラ・ザ・ブッチャーと3年ぶりにシングルで対戦。ブッチャーは81年5月、IWGP参戦を表明し全日本プロレスから新日本プロレスへ移籍。引き抜き抗争のきっかけを作りました。
しかし、ブッチャーの間合いを大切にするプロレスと動き回るスピード重視の新日本プロレスとは噛み合わず。当初契約条件の「年間3シリーズ、15週以上は呼ぶ」をあっさり反故にされてしまいました。
この日の猪木戦はまさに引導渡しマッチで9分49秒、猪木がレッグラリアットからの体固めでフォール勝ち。ブッチャーは新日本プロレスを去ることになりました。
シリーズ最終戦は2月6日、大阪府立体育会館。猪木はバンディと賞金15,000ドル争奪ボディスラムマッチでは対戦。ボディスラムで投げられた方が15,000ドルを払う形式で、軽量の猪木は当然、不利。
猪木はバンディにボディスラムで投げられてしまい、賞金は払わなくてはなりませんでしたが、延髄斬りからの体固めで試合には勝利。
藤波はこのシリーズ序盤と終盤に2度に亘って来日したホーガンとノンタイトルで対戦し両者リングアウトに持ち込みました。
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