84年6月22日、馬場の常駐先と言っても過言ではない永田町のキャピトル東急ホテルで、馬場と新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の代表である大塚直樹が同席して記者会見が行われ、全日本プロレスと新日本興行が業務提携を行い、第1弾として8月26日、田園コロシアム大会を開催することを発表しました。
豪華外国人メンバーを揃えながらも、興行人気で新日本プロレスに勝つことが出来ない全日本プロレス。馬場は常日頃から営業面での弱さを指摘し嘆いていました。
新日本プロレスと言えば営業のトップは前年夏のクーデター事件まで専務取締役営業本部長だった新間寿。「勇将の下に弱卒なし」の言葉通り、新日本プロレス営業部はまさに過激な軍団の一角をを担っておりました。
大塚直樹は新日本プロレス初代リングアナウンサーで新間のすぐ下の営業部長、営業次長には上井文彦、その他加藤一良、元レスラーの伊藤正治、伊佐早敏男らの強者がいましたが、クーデター事件をきっかけに新日本興行、UWFへと分散してしまいました。
全日本プロレスは米沢良三、浪曲の興行をやっていた大峡正男を営業の筆頭に元東京スポーツ運動部記者の飯山和雄(「強いプロレス」の著者として知られる)などベテランがいましたが、穏健な人物が多く、我の強さを出すような人はいなかったように感じます。
馬場自身が「武家の商法」みたいなタイプで、タニマチとの接待に顔を出すようなタイプではありませんでしたので、営業が得意ではなかったことも影響していた感じです。
馬場は会見で「大塚の営業力を買った」と言っていましたが、これは表向きで新日本プロレスが内部分裂を起こしていくさまを冷静に見ていた馬場は、UWFのオープニング・シリーズに外国人選手をブッキングしたのに続き、新日本プロレスから独立した大塚社長に声をかけることで、新日本プロレス内部の相互不信感を強め、一気に新日本プロレスを骨抜きにしてしまおうと考えたのではないか、と思います。
大塚社長も独立した時に「ウチは新日本という名前はついているが新日本プロレスの子会社ではない」と公言しており、社員やその家族の生活がかかっていることを考えると、新日本プロレスの興行だけをやっていたのでは先細りとなります。
84年の独立初年度は新日本プロレスから年間50大会の興行を買う約束は取り付けたものの、相手は猪木なので、いつ掌を返して来るかわからない。新日本プロレス以外の興行もやっていかなければなりません。馬場、大塚の利害関係が一致した訳です。
84年6月29日、後楽園ホールからサマー・ファイト・シリーズが開幕。6月14日の蔵前国技館のハルク・ホーガンvs猪木のIWGP優勝決定戦に乱入した咎で長州には出場停止処分が下されていましたが、開幕戦のリングにタイツとリングシューズ姿で登場し試合に出させろとアピール。
長州の処分はあっさり解けて7月2日より試合に出場しています。
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