古舘伊知郎アナ、山本小鉄、桜井さんの3人体制となったワールドプロレスリングでは、実況では古舘アナが目立ち、解説では山本の発言の機会が多くなりました。
テレビ朝日解説者としての桜井さんのコメントは減少していき、新日本プロレスは79年6月にモハメド・アリ戦で背負った負債を完済し、猪木、坂口に代表権が戻りました。
この年はNWAフロリダのCWF(チャンピオンシップレスリング・フロリダ)の共同オーナーであったヒロ・マツダのルートからNWA系の大物ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデスが新日本のリングに参戦。
運転資金が潤沢になったことがわかりました。
80年はスタン・ハンセンがそのポテンシャルを最大限に発揮して一気に新日本プロレスの外国人レスラーのトップに躍り出ました。
2月8日、東京体育館でエプロンの猪木にラリアットを見舞い、17分12秒、リングアウト勝ちで王座奪取。(4月3日に蔵前国技館で猪木が奪回)
4月25日、後楽園ホールで開幕した第3回MSGシリーズはハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ローデス、ボブ・バックランドにハルク・ホーガンが初来日。新日本プロレス旗揚げ以来の豪華な外国人レスラーが集結。全日本プロレスに勝るとも劣らない陣容となりました。
このままプロレス道だけに精進していれば全て安泰と言えましたが、予定調和を壊すのもまた猪木。
79年4月には六本木ロアビルにブラジル料理、スペアリブを中心としたレストラン、「アントンリブ」を開店させた他、食品輸入販売会社の「アントントレーディング」を設立してマテ茶やひまわりナッツの輸入販売を開始。
新日本プロレスの試合会場でも観客にサンプルが配られています。
80年春頃、猪木の娘である寛子ちゃんが通っていた広尾のインターナショナルスクールの同級生の保護者から、
「猪木さんはブラジルにコネをお持ちだそうで、紹介したい人がいる」と言われ、猪木は松岡というバイオテクノロジーを研究している人物に会います。
それがまさに悪魔の事業と言われたアントンハイセル。
事業内容は過去に何回も書いて来ていますので割愛しますが、ハイセルのビジネススキームにすっかり惚れ込んでしまった猪木は個人のお金をつぎ込むだけでなく、坂口や藤波からも資金を借入。
猪木、坂口の代表復権に伴い、専務取締役営業本部長に返り咲いた新間は猪木の命を受けて、タニマチや知人に出資を募りました。
リング上では81年はタイガーマスクの出現でリング上は更なる活気を呈し、5月には全日本プロレスのトップヒール外国人レスラーであったアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本に移籍。さらにタイガー戸口も。
怒った馬場は報復先月をし、7月にタイガー・ジェット・シンを全日本に引き抜きました。
8月にはディック・マードックが新日本へ。チャボ・ゲレロがNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座のベルトを持ったまま全日本へ移籍、上田馬之助も全日本へ。
8月9日には東京12チャンネル(テレビ東京)の放送を打ち切られた国際プロレスが北海道・羅臼町民グラウンド大会を最後に活動停止し、9月に東京地裁に会社更正法の適用を申請して倒産。
ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇は新日本へ。阿修羅・原、マイティ井上、菅原伸義(アポロ)、冬木弘道は全日本へと分裂しました。
9月23日、田園コロシアムに超満員13500人の大観衆を動員しアンドレvsハンセンの壮絶な大肉弾戦で観客を湧かせ、興行を大成功に終わらせた新間は「これはプロレスブームではない。新日本プロレスブームだ」と豪語、新日本プロレスは我が世の春を謳歌し始めたと思われました。
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