79年2月5日、新日本プロレスの新間寿マネージャーと国際プロレスの吉原功社長が出席して記者会見が行われ、衆議院議員の二階堂進氏(後の自民党幹事長)を日本プロレスリング・コミッショナーとして擁立することを発表しています。
立ち上げは、新日本と国際2団体推薦によるものでしたが新間は「全日本プロレスの馬場さんにも傘下に入ってもらいたい」と呼び掛けました。
日本プロレス時代からコミッショナーは存在し、初代は元農林大臣で「相撲の殿様」と言われた初代横綱審議委員長、初代相撲博物館館長の酒井忠正氏。
アメリカでは州にアスレチック・コミッショナー(体育協会)が存在するところがあり、「ショーとしてのプロレス」を「スポーツとしてのプロレス」て成り立たせる権威としてプロモーターが利用していますが、表に出てくるようなことはなく、
要はコミッショナーの裁定によりノーコンテストとなったタイトルを空位として王座決定戦をやる、とかあまりに反則が酷いから出場停止処分にするとか、プロモーターが考えたアングルにコミッショナー制度を利用しているに過ぎませんでした。
日本でも実務上はそんなにコミッショナーの役割はアメリカと比べて変わらないのですが、力道山はプロレスの興行を日本に持ち込んだ際、アメリカと同じことをしていたのでは日本人の真剣勝負志向に合わないと、
プロ野球、大相撲と同じメジャースポーツにしようとしていましたので大物政治家を配してその権威を高めようとしました。
2代目は力道山が最も懇意にしていた大野伴睦(ばんぼく)元衆議院議長、自民党副総裁。力道山は引退後の身の振り方として大野コミッショナーの推薦で政界進出を早くから噂されていましたが63年12月15日、暴力団員に刺された腹部の傷が元で急逝。大野氏もそれから半年も経たない64年5月に急性心筋梗塞の為に亡くなっています。
3代目は自民党衆議院議員で行政管理庁長官、自治庁長官を務めた川島正次郎で馬場の黄金時代にコミッショナーを務めています。
川島コミッショナーは千葉県市川市の出身で私の卒業した小学校には川島先生の書かれた書体が額に飾られて講堂に貼られておりました。(何て書いてあったかはもう失念)
4代目は自民党衆議院議員で外務相、通産大臣等を務めた椎名悦三郎。
そうそうたるメンバーが名を連ねていましたが73年4月の日本プロレス崩壊と共にコミッショナー制度は消滅しています。
団体が分裂し、認定タイトルも増えましたが、日本プロレスコミッショナー制度復活発表はあまりに唐突でした。
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