75年4月の第2回ワールド・リーグ戦は初の参加全選手による総当たりリーグ戦形式で行われ、猪木、坂口にフリーのストロング小林、大木金太郎の4すくみによる激闘を展開してファンを熱狂させました。
中でも坂口と大木の日本プロレス崩壊を起点とした遺恨試合は壮絶を極め、4月25日、福山市体育館ではノーコンテスト。桜井さんもメンバーに名を連ねていた試合監視委員会の裁定により異例の再試合。
5月9日、高松市民文化センターでの再戦では大木が謎の試合放棄とも言えるリングアウト負けとなりました。
5月16日、日大講堂での優勝決定戦は混沌を極め、1位通過が13.5点のキラー・カール・クラップ。2位には12.5点で猪木、坂口、S小林、大木の4人が並びました。
2位の4人が決勝進出を賭けてトーナメントを行い、勝ち上がった選手がクラップと優勝決定戦を行うことになりました。
抽選で決定したトーナメント第1試合で猪木がS小林をグラウンド卍固めに降し、第2試合の坂口vs大木の3度目の対戦は両者喧嘩越しの大荒れの試合となり両者リングアウト。試合監視委員会は両者失格を告げています。
これで自動的に猪木が優勝決定戦に進出しクラップをグラウンド卍固めでギブアップさせて2連覇を達成。興行的には第1回を上回る盛り上がりを見せました。
シリーズが終わると猪木はカナダに遠征、5月19日、ケベック州モントリオール・ポール・サウベ・アリーナでタイガー・ジェット・シンのNWF世界ヘビー級王座に挑戦。
1-1から反則勝ちでベルト奪取成らず。
5月30日、後楽園ホールでのゴールデン・ファイト・シリーズ開幕戦で、年頭から新日本プロレスにフリー参戦していたS小林の入団が発表されました。
S小林は取締役としての入団で猪木、坂口と並んで「ビッグ3時代到来」とマスコミに書かれました。開幕戦ではアンドレ・ザ・ジャイアントと両者リングアウトの引き分けとなりましたが、その後は外様の悲しさかマッチメークで冷遇されていくことになります。
6月9日、マレーシアのクアラルンプールでジョー・バクナーとのタイトルマッチを行う為、トランジットに羽田空港に立ち寄ったプロボクシングWBA、WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリに猪木の代理人として新日本プロレスの杉田渉外担当が「猪木の挑戦状」を持って姿を現しました。
事の発端はこの年の3月、チャック・ウェップナーを倒して王座を防衛したアリが「次は東洋人とやるぞ。空手でも柔道でもいい。俺とやる勇気ある東洋人はいないのか」とアピール。
アリ特有のリップサービスでしたが、これを聞いた日本アマレス協会会長、八田一朗氏がアリ発言を挑戦状と捉え国内のマスコミに対しこれを助長させるような発言をしています。
これに乗ったのが猪木でした。猪木は新間寿を通してアリ側のエージェントに接触を試みましたが埒が開かず、この日直接行動に出た訳です。
6月26日、蔵前国技館で猪木はシンのNWF世界ヘビー級王座に3度目の挑戦。1-1からバックドロップの2連発でシンをフォール。返上してから4か月ぶりにタイトル奪回に成功しました。
ダーティチャンプと呼ばれたシンが猪木の手を上げて祝福したことで、猪木とシンの抗争第一章は一旦完結したように見えました。
8月1日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで猪木、坂口組はジェリー・ブラウン、バディ・ロバーツ組のハリウッド・ブロンドスと北米タッグ王座の防衛戦を行いました。
ブロンドスは71年11月と74年1月に国際プロレスに来たブロンド・ボンバーズであり、楽勝防衛と思いきや、猪木が捕まり、1本目は猪木がロバーツを回転足折り固めでフォールしましたが、2本目はブラウンのニードロップに猪木がフォール負け。3本目はノーコンテストとなり、カリフォルニア州ルールによりベルトはコミッショナー預りとなりました。
8月3日には2年連続加盟を反対多数(馬場派のプロモーターによる組織票)で加盟が否決されたNWAに加盟が認められましたが、いろんな条件を付与されて猪木はNWAに対する執着が急激に覚めていきました。
8月22日、高崎市体育館での闘魂シリーズ開幕戦から猪木が左膝のウィルス性関節炎(蜂窩織炎)の為、新日本プロレス旗揚げ以来、4週間もの長期に亘ってシリーズを欠場しています。
ロサンゼルスでの試合でリングのマットの雑菌から感染したもので、40度近い発熱、膝の痛みに悩まされ、「左足切断か?」という噂まで出回りました。
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