さらに74年は国内のシリーズ全日程を終えると猪木ら新日本プロレス一行は猪木が少年時代、移民生活をしていた57〜60年に多感な時期を過ごし、師匠力道山と運命の出会いを果たした第2の故郷ブラジル遠征シリーズを行いました。
闘魂シリーズ第2弾に参加したアンドレ・ザ・ジャイアント、レッド・ピンパネール(アベ・ヤコブ)、ロベルト・ソトらの外国人選手に加え、カール・ゴッチ、トニー・チャールスも参戦しています。
12月15日、サンパウロ・コリンチャン・スタジアムで猪木はアンドレとNWF世界ヘビー級王座を賭けて対戦し、両者リングアウトの引き分け。
12月19日、北伯のロンドリーナ・モリンゴン・スタジアムでは猪木、坂口組がアンドレ、チャールス組を破り、この年8月にロサンゼルスでカール・フォン・ショッツ、クルト・フォン・ヘス組を降して獲得した北米タッグ王座を防衛。
前73年のNWF世界ヘビー級王座と併せてタッグのベルトも手中にした新日本プロレスは勢いに乗りました。
ブラジル遠征で猪木はルバング島で生存して日本に生きて帰り、ブラジルで生活していた元日本兵、小野田寛郎氏と対談、さらにブラジルの国民栄誉賞に該当するグラン・デ・オフィシャル勲章を受賞しました。
日本とブラジルで国民的ヒーローになった訳です。
また、この年はストロング小林、大木金太郎を連破した猪木は再三に亘ってマスコミを使って馬場に挑戦、対戦要求を繰り返しました。
猪木の売名行為、お互いにテレビ局との契約があり、最初から対戦など不可能なことは百も承知の馬場は安易な挑発に乗ることはありませんでしたが、マスコミを巧みに使った猪木と新間の情報操作は「逃げる馬場、追う猪木」をファンに印象付けるのに成功しました。
73〜74年までが新日本プロレスの第1次黄金時代と定義致します。
75年、猪木はNWF本部によるタイガー・ジェット・シンの挑戦者指名を「ダーティファイトのシンは挑戦者としての資格に欠ける」と拒否。
それでも挑戦要求をしてくるNWF本部に対し、猪木は怒りニューヨーク州バファローにあるNWF本部に乗り込んでベルトを返上。
事態を重く見たNWFでは責任を取ってデビット・ヘルマン(ディック・フェラルドマン)会長が辞任。ジェリー・アレン・プラター会長代行は猪木の師匠であるゴッチを特使として日本に派遣、猪木を説得に当たりました。
師匠ゴッチの依頼では猪木も無下にすることは出来ず。ただし、筋を通す為にベルトは一旦、返上。改めてシンと王座決定戦を行う、ということで合意しました。
この出来事は完全にでっち上げですが、小学校5年生だった私は完全に信用しておりました。
王座決定戦の前週、3月7日、横浜文化体育館でのテレビ生中継。前哨戦のタッグマッチ、猪木、星野勘太郎組vsシン、マイティ・ズール組の3本目、猪木がシンの初公開となるブレーンバスターで決勝フォールを奪われて負け。大きな不安を残しました。
王座決定戦は3月13日、広島県立体育館と3月20日、蔵前国技館の二番勝負。
広島での初戦は猪木がまたもシンのブレーンバスターを食らい、カウンターの凶器パンチから体固めでフォール負け。猪木は「挑戦者としての資格に欠ける」シンにベルトを奪われてしまいました。
20日の蔵前は新王者のシンに猪木が挑戦となり、両者リングアウトで逃げられてしまい、王座奪還出来ず、NWF世界ヘビー級王座は海外流失となりました。
3月27日、韓国・ソウル市奨忠体育館で猪木は大木のインターナショナル王座に挑戦。大木の額を鉄柱で割り流血させ、大木の得意技でもある足4の字固めで追い込んでいきましたが大木は場外にエスケープ、両者リングアウトでベルトを辛くも防衛しています。
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