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2018年01月27日23:14

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(265)

ミル・マスカラスの幻の国際プロレス参戦の話が実際にあり、それが72年10月、全日本プロレスの旗揚げ以来6年もの長きに亘って継続されてきた吉原社長と馬場の決裂に繋がっていたのも衝撃的な話ではあります。

しかし外国人レスラーの来日中止、とりわけ国際プロレスにとっては珍しい話でもなく、実際にマスカラス国際プロレス参戦か?というニュースは当時の東京スポーツ、ゴング誌、プロレス誌、(別冊ゴング、デラックスプロレス含む)、週刊ファイト等には一切書かれておらず、本当に水面下での折衝だったと言えます。

新日本プロレスならば、「交渉している」レベルで既に新間が相手方の事情も考慮せず、アドバールンをぶちあげてマスコミに書いてもらうよう団体側から積極的に情報発信していったかと思いますが、穏健派の吉原社長と馬場は表に出すことなく、あるいは当時のプロレスマスコミは「知っていても秘密情報は敢えて書かない」という一つの仁義のようなものを矜持にしていた面もあり、敢えて書くことはしなかったようです。

全日本と国際両団体と親交の深いフリーライターでプロレス評論家の菊池孝さん辺りはおそらく交渉経緯を知っていて、敢えてGスピリッツでもその件は触れていなかった(あるいは忘れていた)と思います。

国際プロレス15年の歴史の中で、外国人選手の招聘に関して日本プロレスはもとより、後発団体である新日本プロレス、全日本プロレスとの「争い」で勝ったことは一度もなく、外国人には義理人情は通じない、という現実を目の当たりにさせられます。

79年11月のデビリッシュ・ファイト・シリーズのポスターにクラッシャー・ブラックウェルの写真が掲載される。

ブラックウェルは同年10月の全日本プロレス、ジャイアント・シリーズに来日しており、11月8日、後楽園ホールの最終戦まで出場。

国際のシリーズ開幕戦は11月1日の高萩市民体育館であり、最初の1週間は被ることになる。ブラックウェルは国際には来日しませんでした。

同年12月、翌80年1月に開催される国際プロレスの新春パイオニア・シリーズと新日本プロレスの新春黄金シリーズのポスターの両方ににダイナマイト・キッドの写真が載りました。

キッドは7月に国際に初来日、阿修羅・原との試合が高評価を受け、再来日が熱望されていました。

その年の8月、猪木、坂口、藤波の新日本プロレス勢がカナダのカルガリーに遠征。8月17日、カルガリーのスタンビート・ビクトリア・パビリオンで藤波のWWFジュニアとキッドの英連邦ジュニアのダブルタイトルマッチが行われ、両者リングアウトの引き分け。

この試合もレベルが高く、テレビ朝日でも収録されて放送され、「日本で再戦が見たい」というファンの要望が高まりました。

国際、新日本共に、「ウチに来る」と譲らず。しかしというかやはりというか、キッドは1月3日に来日し1月4日、新日本のシリーズ開幕戦、楽園ホールに出場しています。

裏にはカルガリー在住の大剛鉄之助とミスター・ヒトとの確執があったと言われていますが、国際はキッドのみならず、提携先のカルガリーのスタンビート・レスリング(スチュ・ハート代表)まで根こそぎ新日本に持って行かれました。

80年6月のビッグ・サマー・シリーズのポスターにはタンク・パットンが登場。パットンは全日本プロレスのスーパー・パワー・シリーズ(5月23日後楽園ホール〜6月12日岐阜市民センター)にマスクマンのブラック・テラーとして来日。

国際プロレスのシリーズ開幕戦は6月28日、福島県大越町体育館。つまり一旦帰国して素顔のパットンとして来日すれば問題なく、一般の観客にはパットンが全日本に来たテラーと同一人物かはどうでもよく、わからない人がほとんど。

結局パットンも国際へは来日しませんでした。
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