国際プロレスがミル・マスカラスの顔写真を掲載していたポスターを業者に発注していたということは、かなりの確率で参加が決定若しくは仮契約まで漕ぎ着けていたと推測出来ます。
(ここから先はフィクションが混ざっており、桜井さんばりのファンタジー読物としてお楽しみ下さい)
吉原社長「ウチのシリーズにマスカラスを貸して欲しい」
馬場「吉原さん、マスカラスは週給●●ドルでないと無理だと言っています。」あるいは「マスカラスはウチのシリーズが終わったらアレナメヒコの定期戦に出なくてはならないので、スケジュールが合わないから今回は無理ですよ」
馬場のことですから、おそらく受けたくはなかったと思われ、あくまでマスカラス側の都合で貸せない、と一旦は拒否。
そこで考えられるのがこの年の5月に国際プロレスから全日本プロレスに移籍したキラー・トーア・カマタ引き抜き問題。
75年9月の来日からヒール人気が上昇し、全日本の稼ぎ頭外国人となったアブドーラ・ザ・ブッチャーは来日回数も増えて来ました。
前77年12月に開催された世界オープン・タッグ選手権でザ・シークとの地上最悪コンビでは優勝は逃しましたが、ザ・ファンクスを相手に残忍なフォーク攻撃を見せ、ブッチャーのヒール人気はさらに不動のものとなりました。
地方プロモーターからもブッチャーの出場するシリーズは「買い」の注文が殺到。75年は2回(ジャイアント・シリーズ第2弾終盤からオープン選手権への参戦は残留扱)、76年は3回、77年は2回だったブッチャーの来日はこの78年には4回に増加しています。
馬場はシークがデトロイト地区の「NWAビッグタイムレスリング」のプロモーター兼トップヒール外国人であり、長期の日本遠征が厳しいことと、
またシークとのタッグにプレミア感を持たせる為にもブッチャーの通常の4〜6週あるシリーズにおけるフルタイマーのパートナーとして、ブッチャーと似たタイプで一回り小さくて動けるカマタが適任とばかりにカマタに声をかけたと思われます。
カマタは馬場からオファーを受けた時に吉原社長に黙って行くことはせず、「馬場からこれだけの条件で誘われている、行ってもいいか?」と打診していたそうです。
吉原社長は「その金額はウチでは出せない」とカマタの全日本行きを容認せざるを得なくなりました。
吉原社長「ウチはカマタを気持ちよく送り出している。レンタル参戦も出来んのか!」
馬場もならば考えようということで渋々再検討、マスカラスを説得してどうにか口約束で了承を取り付けた。
それで吉原社長はポスターの発注に入った。国際としても相手が超大物だけに、既存のダイナマイト・シリーズのポスターに顔写真だけを貼り付けるやり方をする訳にいかず、きちんとしたポスターを製作したのでしょう。
しかし相手は曲者マスカラス。国際プロレスを見下していたと思われ、移動や宿泊等に特別待遇を要求し、さらにギャランティの上乗せの打診。
また、国際プロレス側としては最終戦の10月13日、常陸太田市民体育館までは無理としても大会場である10月4日の札幌中島スポーツセンターまでは参戦して欲しかったことでしょう。
マスカラスは待遇面と期間の短縮を要求し、条件が飲めなければメキシコに帰ると言い出す等色々駆け引きを使って来た。
その際、馬場が吉原社長の側でなく、マスカラスの側に立ってしまった為、結果的に国際プロレスはマスカラスの要求を飲むことが出来ず。話しは破談に。
吉原社長が新日本プロレスの品川プリンスホテル・ゴールドホールに現れたのが9月21日、幻のポスターの日付が15日、マスカラスが全日本に来ていた8月には業者に発注をかけていたでしょうから、マスカラスの来日前から話しはあったと思います。
このタイムラグを考えると吉原社長が腹いせに新日本の会場の控室に猪木を訪ねてやって来たということで話の辻褄は合います。
吉原社長の来訪は猪木、新間コンビからすればカモネギみたいなものであり、まさに飛んで火に入る夏の虫、でした。
ログインしてコメントを確認・投稿する