新日本プロレスではこの年3月26日、大阪城ホールにおける猪木vsマサ齋藤戦で海賊男(ブラック・キャット)の変身と言われるが試合中に現れ、M齋藤に手錠をかけてしまい試合をぶち壊し(猪木の反則勝ち)てしまいました。
海賊男にしてもTPGにしてもそうですが、猪木が考えてファンに提供するギミックがもう受け入れられなくなって来ていることに猪木自身が気がついていなかったことが暴動の起きた最大の原因かと思います。
タイガー・ジェット・シンによる新宿伊勢丹前襲撃事件(73年11月)などからは時代も大きく変わっています。
84年6月14日、蔵前国技館における暴動事件、同年8月のストロング・マシン軍団の増殖などは観客の心理を読み切れていないギミックの連発でファンの怒りと無関心を買い、加えて猪木の糖尿病からくる体力の衰えから、自ら観客を満足させる試合が出来なくなってしまっていたのも事実でした。
この当時も昔も新日本プロレスのファンが求めていたのはストロングスタイルのハードな攻防でありました。
新日本プロレスのファンは全日本プロレスのリングで展開されていた天龍vs輪島大士、天龍vsスタン・ハンセンの闘いを見て「こちらの方がヤバい試合をしている」と観客が全日本に流れ、さらに翌88年3月、無期限出場停止処分から新日本に復帰することなく解雇されてしまった前田日明が、新日本から一緒について来た高田伸彦、山崎一夫らと新生UWFを設立すると、本物志向の新日本ファンが多数流れていってしまい、新日本は冬の時代に突入することになります。
74年に制定された東京スポーツ新聞社の「プロレス大賞」。去年で44回目を数える業界の権威となりました。
74年という年は猪木の新日本プロレスが躍進、ストロング小林、大木金太郎を撃破した猪木が馬場に日本選手権を賭けて再三に亘り対戦を要求。
対する馬場も色々な理由をつけてこれを回避。「逃げる馬場、追いかける猪木」という図式が明確になりました。
馬場は12月2日、鹿児島県立体育館でジャック・ブリスコを降し世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座を日本人として初めて獲得。
「猪木よ、お前は実力日本一云々言ってるけど立ち位置が違う、お前が挑戦すら出来ないNWA世界のベルトを巻いたぞ」と無言のアピール。
険悪な雰囲気となった新日本と全日本を「公の場」で一つのテーブルに着かせ「プロレス界発展の為に」両団体の融和を図ろうという当時の井上博社長が考案したものでした。
最優秀選手賞が猪木、最高殊勲選手賞が馬場、年間最高試合賞が猪木vsS小林(74年3月19日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権試合)と両団体のパワーバランスを考慮した選考となりました。
受賞式では「猪木が馬場に殴りかかるのでは?」という不穏な噂も流れました。
東京・芝プリンスホテルで行われた受賞式はピリピリした雰囲気に満ち、馬場にはグレート小鹿、猪木には山本小鉄がボディーガード役としてピッタリついていました。
噂されたような乱闘騒ぎは起きず、馬場も猪木も一枚の写真に収まりましたが握手はなし。
しかし年に一度、国際プロレスも含めた3団体が一同に会するという機会を作った井上社長の功績は大きく、プロレス大賞が現在まで続いているのは大したものであると思います。
(この項終わり、次回よりファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼を再開致します。)
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