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2017年12月19日23:04

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(247)

78年2月で馬場の全日本プロレス、日本テレビとの契約が切れたアントン・ヘーシンクは帰国後も母国オランダに戻り、柔道の指導者として活躍しておりました。

ヘーシンクがローラン・ボック主催の欧州世界選手権シリーズに参加して猪木と対戦すること自体は特に問題もなく、11月23日のロッテルダムでの対戦が発表されています。

当時この報道が為された時の日本での反応は、

「猪木が動きの緩慢なヘーシンクの動きを撹乱して圧勝」、あるいは「パク・ソンナン戦やグレート・アントニオ戦のような喧嘩マッチとなり、猪木が怒り狂ってヘーシンクを半殺しにしてしまうのでは…?」という声もありました。

しかし、結果としてヘーシンクはボックの誘いに応じることなく、欧州世界選手権シリーズには不参加、猪木戦はキャンセルされています。

「ヘーシンクは猪木が怖くなって逃げた」

というのが定説になっていますが、この機会を逃したことで両者の接点は2度となく、幻に終わったことになりました。

90年代に入り、93年11月12日、コロラド州デンバー・マクニコルス・スポーツアリーナで開催された記念すべき第1回のUFCで、当時全く無名であったブラジリアン柔術「グレイシー一族」のホイス・グレイシーがU系最強外国人といわれたウェイン・シャムロック、前田日明とも対戦したジェラルド・ゴルドーをチョークスリーパーで連破し優勝。世界中の格闘技ファンを驚愕させていますが、

ホイスが軽量だったことに加えてさらに自分よりも強い兄ヒクソンが存在すること、さらにグレイシー一族の父、エリオは51年にブラジルに遠征してきた木村政彦と対戦して腕絡み(キムラロックと言われたが恐らく後付けで命名された)で敗れておりリベンジの為にグレイシー柔術を主宰しはじめたこと、等々。

フィクション、ノンフィクションないまぜになって様々なメディアが柔道、柔術をいきなり再評価し始め、特に絞め技、間接技の類いが一気にもてはやされるようになりました。

その時代であればヘーシンクも少しは、いや、かなり違った評価を受けていたはずです。(もちろんいい意味で)

猪木が、馬場と最も敵対していた時代に全日本プロレスのリングに上がっていたヘーシンクですが、ザ・デストロイヤーのように日本に住んでいて毎シリーズ出ていた訳ではないですから、猪木のことはそれほど知っているとは考えにくく、「猪木が怖くて逃げた」は日本の新日本プロレス寄りマスコミ(桜井さんか?)が流布したに過ぎず。

単にプロモーターとしてのボックの評判が悪いことから特にお金に困っていた訳でもないヘーシンクが無理して出る必要もない、と思ったからかと推測致します。ヘーシンクにとってプロレスでは馬場より待遇のいいプロモーターは存在しなかったから、が理由と言えます。
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