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2017年12月09日23:27

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(237)

ところで、国際プロレスの吉原功社長は6年間という長きに亘って信頼関係を構築して来た馬場の全日本プロレスとの提携を解消してまで、馬場以上にシビアな猪木の新日本プロレスと手を組んだのか?

国際が、全日本とのビジネスにおいてイニシアチブを取れず、マッチメークで苦汁を飲まされ続けて来たのは今まで書いて来た通りですが、新日本との関係はさらに悪く、3団体時代から遡って、豊登、猪木の東京プロレスと国際プロレスの合同興行時も、67年1月の国際旗揚げシリーズとなった新春パイオニア・シリーズだけで提携は解消。

猪木は同年4月に北沢幹之(魁勝司)、柴田勝久と共に日本プロレスに復帰してしまいました。

吉原社長は後日この時のことで「猪木には煮え湯を飲まされた」と語っています。

両者の間に何があったかはお互いに明かしていないですし、吉原社長は長年の国際プロレスの経営からくるストレス、ストレス解消の為の過度の飲酒が祟ったか、85年6月10日、55歳の若さで胃癌の為亡くなっています。猪木がこの先、真相を明かすようなことは先ずなく、この時のことは明らかにされることはないでしょう。

日本プロレスの妨害に遭って興行中止が相次ぎ、「板橋事件」のような暴動騒ぎ(66年11月21日、東京プロレスの興行を買ったプロモーターがそれより前の興行での代金を東京プロレスに入れず、猪木らが当日になって『金をもらわなければ出ない』と試合出場をボイコット、既に会場の設置が終わり観客を入れ始めてからの中止決定に怒った観客が火を付けたりリングを壊して暴動を起こし警察が駆けつける事件となった。観客を優先しなかった猪木の姿勢が問題となったが、資金繰りが自転車操業だった東京プロレスからみればやむを得ない措置と擁護する声もある)もあって業界における信用失墜で東京プロレスが単独での興行開催が不可能となっていた時、救いの手を差しのべて上がるリングを提供したのは吉原社長でした。

東京プロレスが興行会社として立ちいかなくなり、東京プロレス潰しに成功した日本プロレスは会社の資金を横領してギャンブルにつぎ込み、除名処分となった豊登は別として猪木は「豊登の口車に乗って行っただけ」として、

「猪木は日本プロレス界の宝」と表向きは日本プロレスを後援していたスポーツニッポン、宮本義雄社長の仲介で川島昭次郎日本プロレスリングコミッショナーに「猪木と猪木について行った北沢、柴田の復帰」が打診され、認められました。

これは日本プロレスが興行会社である一方、力道山がプロ野球、大相撲、プロボクシングなどのメジャープロスポーツと同じ形態に見せるべく、コミッショナー制度、日本プロレス協会を設置していたからでした。

東京プロレスでデビューした選手の大半は国際プロレスにそのまま残留しましたが永源遥は猪木と共に日本プロレスに移籍しています。

67年4月7日、後楽園ホールでの第9回ワールド・リーグ戦のリングにスーツ姿で3年ぶりに古巣の日本プロレスのリングに立った猪木は観客に挨拶。

同年5月5日、鳥取市民体育館で馬場とタッグを組みマイク・デビアス、ダン・ミラー組を破って復帰を果たしています。

吉原社長からすれば猪木の行動は身勝手に映ったことでしょう。
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