吉原功国際プロレス社長のプロレス生活25周年記念イベント、日本リーグ争覇戦には馬場の全日本プロレスも全面協力。
ナンバー2の鶴田(決勝トーナメントより出場)を始め、ミスター・サクラダ(桜田一男、ケンドー・ナガサキ)、グレート小鹿、大熊元司、ロッキー羽田。
フリーのキム・ドク(最近になってGスピリッツのインタビューで77年から表向きはヒールの為フリーであるが、実際は所属選手として全日本プロレスと契約していたことを明かしている、所属になった時期は恐らく、77年10月29日、黒磯市公会堂で行われた鶴田との試合からかと思われる)、石川隆志(隆士)が参加。
石川は学生横綱出身の大ノ海の四股名で前頭4枚目が最高位。77年名古屋場所を最後に「糖尿病の悪化」を理由に廃業。
しかしながら、77年10月にフリーとしてプロレス転向を発表、常日頃から「大相撲出身者は腹が出ているから取らない」と公言していた猪木の新日本プロレスを選ぶはずもなく、馬場の仲介でテキサス州アマリロのドリー・ファンク・ジュニアの許へ修行に出ていました。
大ノ海の四股名は天龍と違い、当時の花籠親方の現役時代の四股名だった為使えず。(天龍も春秋園事件で知られている戦前の名力士、天竜三郎の四股名を継承していたが問題なかった)
石川がプロレス転向した当時、天龍、プリンス・トンガ(後のキング・ハク、本名トンガ・ウリウリ・フィフィタ)が連続して全日本プロレス入り。日本相撲協会から「馬場は将来有望な力士を引き抜いている」とクレームが来た為(トンガの場合は所属していた朝日山部屋のお家騒動が原因で辞めざるを得なくなった為)。馬場が相撲協会との軋轢を避ける為に表向きフリーにしていただけです。
これと同じことが10年後の87年にもあり、輪島、ジョン・テンタ、高木功(2代目嵐)が相次いで全日本入り。田上明(元十両・玉麒麟)のプロレス入りに関してはわざわざ田上を協力関係にあったジャパン・プロレスの所属にしています。
この時、日本相撲協会から再びクレームがついた為、全日本プロレスは両国国技館から撤退、日本武道館を東京のホーム会場にしました。
話を本題に戻します。もし日本リーグ争覇戦に新日本プロレスから星野勘太郎、山本小鉄が参加していたとしたら、リーグ戦で全日本プロレス勢との直接対決は避けらなかったと思われますが、
吉原社長であれば上手く双方に傷を付けないマッチメークを組んだことでしょう。自分の25周年に3団体の選手が顔を揃える、これは吉原社長の悲願でもありました。
しかし、馬場が当然黙っているとは思えず、「新日本の選手を出場させたら、ウチの選手は全員引き上げさせる」と吉原社長のプランを拒絶。
馬場からするとリング上で何をしてくるかわからない新日本の選手とは絡ませられない、星野は適当に合わせてくれるかも知れませんが、小鉄は信用出来なかったと考えます。
吉原社長は苦渋の決断で新日本の提案を謝絶、その為に新日本プロレスの会場に足を運んだのでありました。
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