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2017年11月01日22:33

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(199)

全日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦は、「(対抗戦の)話を持って来たのは吉原さん」(馬場)という話でしたが、

大会の売上から必要経費を差し引いた営業収益は両団体で折半となりましたが、外国人選手を呼ばないのでギャラが発生せず、手取り額が自分の予想以上に多かった馬場は「いやぁ、対抗戦はいい商売になるなぁ」とほくそ笑みを浮かべた、と言います。

前75年11月3日、国際の後楽園ホールで行われた初の両団体による対抗戦は選手も両団体のファンも熱くし、会場は熱気と興奮に包まれました。アイデアマンの吉原社長は規模を拡大しての全面対抗戦を馬場に持ちかけたと思われますが、やはり国際の方のインバウンド(売込み)案件だっただけにマッチメークでも全日本に主導権を握られてしまいました。

それでも、営業収益が折半なら、国際プロレスにも相応の収入が入って来た訳で対抗戦をやったメリットは大きかったと言えます。

76年の5月になると、73年4月の日本プロレス崩壊後、大木金太郎、高千穂明久らと百田家(力道山家)と日本テレビの仲介で同年6月に馬場の全日本プロレスに合流したものの、馬場の方針に反発しフリー宣言し渡米した上田馬之助が国際プロレスに登場。

6月11日、古河市立体育館でラッシャー木村を破りIWA世界ヘビー級王座を奪取、そこで新日本プロレスから上田に声がかかり、猪木と新間寿営業本部長は上田にIWAのベルトを持って来るように画策しましたがこれは未遂に終わりました。

この件(くだり)は本連載、及び別連載で何度も書いていますので詳細は割愛しますが、上田が業界のルールを破ってIWAのベルトを持ったまま新日本行こう、と考えていたのは事実と推測され、国際の吉原社長は猪木と新間のやり方にまたしても不信感を抱き激怒しています。

76年12月8日、横浜文化体育館でパット・パターソン、ラリー・ヘニング組を2-1で破り、北米タッグ王座5度目の防衛に成功した坂口、ストロング小林組は試合後に「シングルが難しいなら、タッグによる日本選手権なら出来るかと思う。全日本プロレスの馬場、鶴田組、国際プロレスのR木村、マイティ井上組に出てもらえるように呼び掛けたい」とアピール。

坂口、S小林の性格から勘案して自分達の意思というより、会社に言わされている感が強い発言でしたが、「猪木が出て来ないなら、もしかして」という考えも1ミリ位はあったかと思われます。

馬場は相変わらず「シングルで出来ないものがタッグなら出来るなんてことはない」と無視を決め込み、吉原社長も「ウチは10周年記念興行(3年半ぶりに復活の第6回IWAワールド・シリーズ&第1回IWAタッグトーナメント)を控えており、内部を確りと固める時期、他団体に目を向けている余裕はない」とコメント。

事実、この時期は友好関係にあった国際と全日本の交流は表立ってはありませんでした。
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