藤波はロサンゼルスからメキシコに渡り、78年8月13日にはメキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスのUWAの定期戦に出場。
メヒコの鉄人レイ・メンドーサの挑戦を受けてWWWFジュニア・ヘビー級王座の防衛戦を行っています。
メンドーサはメキシコでは英雄的スペル・エストレージャでありましたが、来日は71年4月の日本プロレス、第13回ワールド・リーグ戦の1度だけ。
身体が小さかった為か本領発揮に至らず、日本側との2回総当たりで上田馬之助、グレート小鹿に反則勝ちが1回、山本小鉄に勝ちが1回、星野勘太郎に不戦勝が1回で馬場、猪木、大木金太郎、吉村道明ら上位陣には全く通じず。
この日はテレビ朝日のワールドプロレスリングの中継スタッフが初めてメキシコからの実況中継を行った記念すべき日でした。
今でこそ、メキシコのルチャ・リブレは日本でもサムライTVや新日本プロレスワールドでアレナメヒコの大会が簡単に視聴することが出来ますが、39年前はまだまだメキシコは未知の国でありました。
日本プロレス、全日本プロレスを放送する日本テレビも、馬場が身体の小さいメキシカンと試合をすることをよしとしなかったせいか、メキシコからの中継は一度もなく、歴史的意義が大きかったと言えます。
実況は舟橋慶一アナ、解説は75年にメキシコに修行に出掛けて成功を治めたグラン浜田です。
浜田は、72年に旗揚げ間もない新日本プロレスに入門、同じ群馬県出身で中学校の同級生だった関川哲夫(ミスター・ポーゴ)と一緒に新日本の門を叩きました。
身長167cm(公称)と小柄だった浜田は大相撲大鵬部屋の力士だった経験を持つ関川のおまけに入門が許された感じでした。関川は新日本を1年程で辞めてしまいましたが浜田は山本小鉄の厳しい指導にも耐え、リトル浜田のリングネームで前座の人気者となりました。
75年5月に橋本小助(引退)とメキシコ修行に出発、小さな巨人と言われスペル・エストレージャの仲間入りを果たしました。
さて、藤波のセコンドにはカール・ゴッチとサマー・ファイト・シリーズに来日しメキシコに戻ったばかりのハン・リーがつきました。
試合は60分3本勝負と書かれている文献が大半ですが、おそらく、メキシコでの慣例に従って時間無制限3本勝負で行われている可能性が強いと思われます。
公式記録では1本目は8分5秒に藤波が逆さ押さえ込みで先制、しかし、これはバックスライドではなく、藤波がよく使う相手の頭を押さえて両足を相手の腕にフックしてクルッと丸め込むゴッチ式のエビ固め。
2本目は4分30秒にメンドーサが首固めとなっていますがこれもスモールパッケージではなく、メンドーサが足で藤波の足を固定して腕で藤波の腕と首を同時に固める複合技のエル・ヌド(結び目固め)でのギブアップ勝ち。
この頃ジャベ(ルチャ・リブレの関節技全般を表す言葉)という言葉は一般的には浸透しておらず、この差異は仕方ないかと思われます。
決勝の3本目、飛ばないルチャドールであるメンドーサは空中技は出しませんが藤波がドラゴンロケット(トペ)を敢行。最後は5分25秒、スライディング・レッグシザースからの回転足折り固めを決めて3カウント。2-1で藤波が9度目の王座防衛に成功しています。
ログインしてコメントを確認・投稿する