藤波の凱旋帰国により、ファンからの期待が大いに高まったのが、猪木との「新日版師弟コンビ」の結成でした。
師弟コンビと言えばこの時代最も知られていた馬場、鶴田組が大きな存在感を放っていました。
ミュンヘン五輪アマレス日本代表の金看板を引っ提げて72年10月、旗揚げしたばかりの全日本プロレスへの入団を決めた鶴田は「全日本プロレスに就職しました」という名台詞を残しました。
プロレスと言えば入門するものであり、力道山道場の血の滲むような練習生生活を思い浮かべがちですが、鶴田のような新卒の大学生(51年3月25日、早生まれの鶴田は73年3月に現役で中央大学を卒業)が就職するような感覚でモノを喋ったのは斬新でした。
馬場は最初から鶴田を後継者として別格扱いとし、半年間テキサス州アマリロのファンク一家に預けて基礎を学ばせ、73年10月には凱旋帰国。
凱旋帰国3戦目の10月9日、蔵前国技館では馬場と組んでドリーとテリーのザ・ファンクスの持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦。
1本目、これまで日本では使い手がいなかったフロントスープレックスを出して観客を驚愕させ、ジャーマン・スープレックスホールドでテリーからフォール勝ち。
2本目はテリーが鶴田から取り返しましたが、3本目は61分フルタイム闘っての時間切れ引き分け。
まさに出世試合であり、その後全日本の若大将として団体を引っ張っていく存在になりました。
馬場は三条実業高校を中退してプロ野球の読売巨人軍に入団していますが学歴ではノンキャリアでも実績はキャリア組。
60年に日本プロレスに入門した時は同期の猪木とは待遇が全ての面で違いました。
藤波は格闘技のバックボーンは持たず、中学生の時に日本プロレスが下関市に巡業に来た時に同郷の北沢幹之(魁勝司)を頼って会場に現れ入門を直訴。
「どうせすぐに辞めてしまうだろう」的扱いで練習生として日本プロレスに入門が許可されました。
猪木の付き人をしていたのが運命だったか、71年12月に猪木が会社乗っ取りを企てたクーデター犯として日本プロレスを除名、追放処分にされ、72年1月に新日本プロレスを旗揚げした時に日本プロレスを辞めて新日本へ参加。
74年12月8日、刈谷市体育館で若手の登竜門と言われたカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦決勝で小沢正志を破り優勝。
翌75年5月30日、後楽園ホールで海外修行に出発する旨の挨拶を行うとゴッチの推薦で西ドイツに向かい、その後アメリカ、メキシコへと転戦。78年1月23日、ニューヨークMSGでカルロス・ホセ・エストラーダを降しWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得。
3月に凱旋帰国しドラゴンブームを巻き起こしたのは何度となく書いてきた通りです。
新日本プロレスは猪木が元々タッグプレーヤーではなく、坂口との黄金コンビ以外は決定的なタッグパートナー、というのは不在。
ストロング小林との「ニュー・ゴールデン・コンビ」、76年2月に西ドイツから凱旋帰国した木戸修、新日本初の生え抜きキャリア入門組だった長州力、いずれもタッグチームとしてはあまり活躍出来ず。
そう言った意味でノンキャリア同士の猪木と藤波は共通点もあり、お互い相通じるものも多かったと思われ、猪木、藤波組待望論が出始めていたのです。
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