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2017年09月03日23:43

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(141)

猪木と坂口の因縁は67年2月の坂口の日本プロレス入団まで遡らないとなりません。

南築高校、明治大学、旭化成を通じて柔道の日本代表選手だった坂口は65年に全日本柔道選手権に優勝。

196cm、125kgという恵まれた体格の坂口にスカウトの目を向けたのが日本プロレスでした。

当時は猪木は日本プロレスを離脱し東京プロレスを豊登と旗揚げ、66年10月12日、蔵前国技館での旗揚げ戦こそ満員になりましたがその後地方興行は不振が続き、2シリーズ開催したのみで単独興行を行える資金が尽きました。

翌67年1月からは国際プロレスとの合同興行で再スタートを切りましたが1シリーズのみで頓挫。

坂口は馬場に次ぐ日本プロレスの次代のエース、猪木の後釜としてスカウトされた訳です。

しかし猪木は67年4月に日本プロレスに復帰、2年に亘るアメリカ修行から坂口が帰国した時には坂口の上のポジションにいました。

猪木は「坂口なんか片手で3分(で倒す)」と挑発、年齢は坂口が1歳上であり両者の関係は微妙なものになっていきます。

その後のNET(テレビ朝日)の日本プロレス中継の参入、猪木、馬場の退団、猪木、坂口による日本プロレス、新日本プロレス合併案、それに対する大木金太郎の反対、坂口の新日本入団、NETの新日本への中継鞍替え、日本プロレス崩壊までは何回か書いていますので割愛します。

猪木vs坂口初対決は74年4月26日、広島県立体育館での第1回ワールド・リーグ戦決勝リーグ戦。

猪木が足4の字固めを見せて坂口がこれを耐える展開で30分時間切れ引き分け。

2度目の対戦は同年5月8日、東京体育館でのワールド・リーグ戦優勝決定戦の舞台。

ここですんなり両者が対戦していればまた新日本プロレスの流れも違ったものになっていましたが、待ったをかけたのが青銅の爪キラー・カール・クラップ。

猪木、坂口、クラップの3人による巴戦(先に2勝した選手が優勝)となり組合せは抽選で決定されました。

巴戦第1試合は坂口がクラップに反則勝ち、坂口が反則ながらまず1勝。

第2試合で猪木と坂口が対戦。試合展開は広島と同様に猪木が足4の字固めを出していきました。坂口が場外に転落したところで第1試合で坂口に反則負けを喫し、結果に大きく不満を持つクラップがジ・インベーダー(ビル・ドロモ)を連れて乱入。

猪木は前年、クラップが日本プロレスに来た時は新日本を旗揚げしていて対戦はしておらず、坂口はクラップとインターナショナル・タッグ選手権を巡って対戦し因縁はありました。(73年2月22日、大阪府立体育会館でジョニー・バレンタイン、クラップ組が坂口、大木組を破って王座獲得、坂口日本プロレス最後のシリーズ)

坂口に襲いかかり、本部席の机、鉄柱に頭部を叩きつけて坂口は額から大流血、おびただしい出血により15分42秒、ドクターストップとなり、無念の棄権。

坂口の棄権で次の猪木とクラップの巴戦が優勝決定戦となり、7分16秒、猪木が弓矢固めでギブアップ勝ちし初優勝となりました。

優勝した猪木は「来年こそは坂口と決勝で戦い、すっきりと勝って優勝したい」と言えば、病院に運ばれた坂口も「来年は猪木さんに勝って優勝したい」と無念さを口にしました。

ファンのほとんどが坂口に対して同情的であり翌75年の第2回大会は猪木と坂口によるハンディなしの優勝決定戦が見たい、という声が多く寄せられ、外国人側が弱体だった新日本のワールド・リーグ戦は興行的には大成功を収めました。
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