78年4月21日、蔵前国技館で新日本プロレスの新しい「春の本場所」MSGシリーズが開幕しました。
新日本プロレスはNET(テレビ朝日)の放送がついた翌年の74年から、日本プロレスの春の本場所であったワールド・リーグ戦の名称を継承し(おそらく無断)スタートさせています。
旗揚げ当初から日本テレビの放送がつき、豪華な外国人を集めていた馬場の全日本プロレスは、旗揚げ半年もしない73年3月には先に春の本場所「チャンピオン・カーニバル」をスタートさせていますが、この時点ではまだ日本プロレスが存在していた為ワールド・リーグ戦の名称は使わず。
当初は優勝争いを競う本戦のトーナメントとチャンピオン・カーニバルという名称に合うように「チャンピオンのお祭り」的な要素を強く取り入れ、タイトルマッチを多数組む「二本立て」のコンセプトとしました。
この為、73年の第1回大会はマーク・ルーインを南半球ヘビー級王者、キング・イヤウケアを太平洋岸ヘビー級王者、カリプス・ハリケーンを中南米ヘビー級王者に「仕立て」タイトル戦を強行しましたが、観客動員にはあまり効果はありませんでした。
この辺りの出典不明の即席ベルトに関して全日本プロレスと全日本のファンは新日本プロレスの北米タッグ王座のことは全く笑えないと思います。
新日本のワールド・リーグ戦は外国人勢の弱体感は如何ともし難く、末期の日本プロレスに来日しインターナショナル・タッグ王座を2度に亘って奪ったキラー・カール・クラップがエース格。
日本プロレス時代のように、日本側と外国人側を同数にして両陣営同士で総当たりリーグ戦を行い、日本側と外国人側の最多得点者同士で優勝を争うだけでは興行としては刺激が少ないメンバーでした。
そこで、74年の第1回の新日本のワールド・リーグ戦は、予選リーグ戦は従来の日本プロレスのやり方を踏襲、そして半数にわたる両陣営の予選通過者8人により全選手総当たりによる決勝リーグ戦を行うことにしました。
折しも、この年の3月19日、蔵前で猪木vsストロング小林による日本人大物対決があったばかりで「今度は猪木vs坂口戦が見られる」とファンが熱狂しました。
猪木と坂口の対戦に関しては後述致しますが、全日本プロレスと比べて外国人メンバーはかなり弱体だったものの興行としては当たりました。
翌75年の第2回大会は初めから参加16選手による総当たりリーグ戦を敢行、S小林、大木金太郎などフリーの大物が参戦。坂口と日本プロレス時代の遺恨を巡る大木の参戦はリーグ戦を大いに盛り上げました。
この成功を目の当たりにしていた馬場が翌76年のチャンピオン・カーニバルからトーナメントに代えて総当たりリーグ戦に変更し新日本に対抗していきました
76、77年の第3、4回は猪木がシード参加(優勝決定戦のみ出場)としておきながら、結果的にいずれもリーグ戦を棄権したことでファンの興味が薄れ、また、日本プロレス時代に最初にワールド・リーグ戦を開催した時の「各国の代表選手によるプロレス版オリンピック」という考え方も、プロレス興行が行われていない国が多く実際はギミック上での代表選手ばかりで時代に合わなくなりました。
よってワールド・リーグ戦はその役割を十分に果たして幕を引いた、ということになりました。
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