77年3月4日、高崎市体育館で開幕した第4回ワールド・リーグ戦。開幕戦のテレビ生中継では吉田光雄が凱旋マッチを行い公式戦でロベルト・ソトを羽根折り固めでギブアップさせ快勝。
前年度優勝者の坂口はジョニー・パワーズの足8の字固めにギブアップ負けで黒星発進。
特筆すべきは新日本プロレス初参戦となった流星仮面マスクド・スーパースター。開幕戦ではニコリ・ボルコフとのタッグで猪木、星野勘太郎組と対戦して2-0のストレート勝ちを治めました。
巨体の割にはスピードもありパワーも兼ね備えており、その正体が議論されました。
ゴング誌ではスーパースターの正体はWWWF地区で黒覆面ジ・エクスキューショナー2号として活躍、キャプテンUSAのリングネームでも試合をしていたチャック・オコーナー(ビッグ・ジョン・スタッド)ではないかと誌上で推測。
ソースとしてはスタッドもマスクド・スーパースターとしてアメリカで試合をしていた経験があったからというものでしたが、実際は別人でした。
前76年7月のアジア・リーグ戦にモンゴル代表(ギミック上)として出場したジートとボロのザ・モンゴルズのボロ・モンゴル(本名ビル・イーディ)がその正体で来日間隔僅か7か月での変身ぶりは見抜けませんでした。(初来日は74年4月の第1回ワールド・リーグ戦)
それを言うとニコリ・ボルコフもボロの前にベポ・モンゴルとしてジートと組んでWWWF地区で活躍、72年7月の馬場最後の日本プロレス参加シリーズとなった第2次サマー・シリーズに来日しており、新旧モンゴルズがキャラクターを変えて同時に来日したことになります。
このシリーズ、当初は最終戦が3月31日、蔵前国技館のみでしたが、追加日程として翌4月1日にも蔵前国技館大会の開催が発表されました。
新日本プロレスはこの第4回ワールド・リーグ戦を旗揚げ5周年記念シリーズとしていましたが、5年にして初の蔵前2連戦となりました。
蔵前国技館での2連続興行はもちろん新日本プロレスとして初の試みでした。
この背景には77年4月1日を持って新日本プロレスを放送していたNETがテレビ朝日に局名を変更(当時の法人名は全国朝日放送株式会社)することが決まっており、4月から他局に負けないようにいいスタートダッシュ(視聴率)が切れるよう、看板番組の一つであるワールドプロレスリングにもテコ入れ命令が下されたことがありました。
テレビ朝日は翌々日の4月2日にも蔵前国技館からセンサク・ムアンスリンvsガッツ石松のプロボクシングWBC世界ジュニア・ウェルター級級タイトルマッチを午後7時30分から生中継することを発表。
石松と言えばWBC世界ライト級王者時代は日本テレビ系列の看板ボクサーでしたが、前76年5月、プエルトリコでエステバン・デ・ヘススに敗れ王座転落。
所属していたヨネクラジムもメインスポンサーがBVDからレインボーに変わり日テレとの関係も切れていました。ボクサーとしては下り坂の石松でしたが全国的な知名度は大きく、視聴率的には期待度大でした。
蔵前国技館には3日連続でテレビ朝日スポーツ局の中継車が入ることになった訳です。
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