猪木はアンドレ・ザ・ジャイアントとの格闘技世界一決定戦を終えるとすぐさま韓国に遠征。
76年10月10日、ソウル市奨忠体育館でパク・ソンナン(朴松男)の挑戦を受けてNWFヘビー級王座の防衛戦を行っています。
この試合、ポニーキャニオンより発売されたビデオ(DVD)の「キラー猪木」シリーズにも収録されたり、柳澤健氏著「1976年のアントニオ猪木」にも書かれている喧嘩マッチとして後世に伝えられている試合ですが、
問題となったのはタイトル戦ではなく、前日の10月9日、大邱(テグ)で行われたノンタイトルの前哨戦の方です。
大木金太郎が馬場の誘いを受け全日本プロレスに行ってしまった関係から猪木は韓国でのビジネスパートナーを大韓プロレス協会派にしなければならなくなりました。
パクは4月の第3回ワールド・リーグ戦に一度は新日本への初参戦が発表されましたがキャンセルとなり、シリーズ最終戦の5月13日、大阪府立体育会館で行われた「日韓親善プロレス大会」には張永哲、千圭徳、ウ・キハンら日本では前座レベルの選手が参加し興行の看板としては成り立たなくなりました。
その流れから猪木が韓国に呼ばれパクと試合をすることになった訳ですが、パクはアメリカのフロリダ、ジョージアを主戦場に「コリアン・アサシン」の異名でテコンドーを使うギミックでヒールとしては売れていました。
韓国の国民的英雄と言われたキム・イルこと大木は力道山存命中の63年にアメリカに修行に行き、日本プロレスと親密関係にあったロサンゼルスでWWA世界タッグ王座を獲得した位の実績しかなく
テキサス州ヒューストンでルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した時は「世界のベルトに手が届く」とシュートマッチを仕掛けて生のヘッドバットをテーズの顔面に入れていった為、怒りを買ってテーズにパンチの連発で額を割られて返り討ちに遭ってしまいました。
これが風評としてプロモーター間に伝わったか大木はアメリカでは仕事に恵まれず、日本と韓国とを往復することになります。
アメリカではパクの方が格上で仕事にも恵まれていたのはパクが頭が柔軟でありプロモーターに対して従順だったからでしょう。
アメリカでそれなりのポジションにいたパクですから、プライドもあり、「ソウルでの本番のタイトル戦では猪木に負けるので大邱の試合では自分に花を持たせて欲しい1勝1敗でいこう」と申し出したとのことです。
これを聞いた猪木が激怒し、伝えに来たミスター高橋を怒鳴り付け拒絶、試合中にパクの目に指を入れて戦意喪失させパンチでKOしてしまったというのが定説になっています。
試合描写はゴング76年12月号と76猪木ではまるっきり違っており、インターネットのない時代で大邱の試合は写真や映像も残ってはおらず、確認のしようもなく、事実は謎のままで、猪木は本当のことを語る訳もありませんし同行していた坂口も同じでしょう。
試合結果はノーコンテスト、猪木のリングアウト勝ち、試合自体がエキシビションだった、など諸説ありますが、いずれにしてもこの試合でパクが猪木に対して警戒心と不信感を抱いてしまったのは事実で、パクは会場入りしたもの試合になかなか登場せず、韓国国営放送のKBSで生中継されたソウルでのタイトル戦は40分位試合前のリングを延々と映さざるを得なくなったそうです。
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