76年も終盤に入ると、年末のビッグマッチで猪木が誰と対戦するのかが争議の的になっていきました。
闘魂シリーズ終盤の10月6日、大阪府立体育会館と10月7日、蔵前国技館で動きがありました。
この時点で猪木の首を狙い対戦表明をしていたのはイワン・コロフ、ウィリエム・ルスカ、上田馬之助の3人。
コロフは闘魂シリーズの前半戦に特別参加、9月10日、品川スポーツランドでの猪木vsスーパースター・ビリー・グラハム戦の前にグラハムと一緒にリングに現れました。
コロフは何やら紙を取り出すとマイクを掴んで読み上げました。これはビンス・マクマホン・シニアが猪木に宛てて書いた「親書」であり、コロフを猪木のNWFヘビー級王座に挑戦させるように書いてあったとのことです。
日本的に言えば「紹介状」か「推薦状」の類いですが、どう考えてもビンスがそんなものを書く訳がありません。
猪木がビンスからの親書を無視してコロフの挑戦を受けず、怒ったらコロフがリングに上がり「猪木、何故俺の挑戦を受けないんだ?俺が恐くて逃げたのか?」とアピールしました。
コロフはアンドレ・ザ・ジャイアントと入れ替わりにアメリカに帰国してしまいましたのでシリーズ終盤には日本におらず、次の闘魂シリーズ第2弾にも連続して特別参加が決まっており、まずは第一候補でした。
ルスカは2月6日、日本武道館で猪木と対戦し敗れた後、猪木への復讐を誓ってアメリカに渡りプロレス修行。
実際は新日本プロレスと親密関係にあったロサンゼルスのマイク・ラーベルに新日本がブッキングしたものでした。
5月21日、オリンピック・オーデトリアムのリングに登場したルスカはレスリングタイツとリングシューズというプロレスラーのスタイルで試合をし、デニス・スタンプを4分、裸絞めで降しました。
以後、日本でもテレビ放送された米国時間6月25日夜のオリンピック・オーデトリアムでのドン・ファーゴ戦まで13連勝を飾り、もはやロサンゼルス地区に敵はいなくなった、次は猪木だ、とアピールしました。
しかし実際のところ柔道マンであるルスカは対戦相手のいいところを引き出すようなことは出来ず、フィニッシュにはチョーク気味のスリーパーを出して相手を絞め落とすところまでやってしまい対戦相手を務めていたジョバー達の反感を買い、ラーベルのところには「ルスカとは試合をしたくない」というジョバー達の声が殺到しました。
ラーベルも自分が売り出そうとプッシュしていた訳ではなく新日本プロレスからお荷物を預かったようなものでステフ(いわゆる硬い)な試合のルスカでは金にならず、アメリカス・ヘビー級王者だったチャボ・ゲレロに当てられるレベルでもなくもて余していました。
6月25日も当初はジ・アラスカン(ジェイ・ヨーク、73年4月日本プロレスの最終シリーズに来日)が対戦すると発表されていましたがアラスカンがこれを拒否。
「柔道野郎ナメるな!」とルスカの対戦相手を承諾したのは海軍上がりの荒くれ者ファーゴでした。
ファーゴはディック・ザ・ブルーザー、ウィルバー・スタイダーが共同オーナーを務めるインディアナポリス版WWAでレーン・ゴルト(レネ・グレイ)と組んでザ・レジオナリーズとしてWWA世界タッグ王座に就いたこともあり、
技もなく扱いはジョバーながら気性の荒らさと腕っぷしの強さではレスラー仲間から一目置かれる存在でした。
ファーゴはルスカに裸絞めで敗れますが十分いい仕事をしてみせました。
ラーベルは新日本プロレスに対し悪いがルスカはこれ以上は使えないよ、とばかりルスカをリリース。
ロサンゼルスをクビになったルスカは新日本のブラジル遠征シリーズに参加、ここでもバーリ・トゥードのイワン・ゴメス相手に喧嘩マッチをやってしまいリオデジャネイロの体育協会から出場停止処分を食らいました。
事態を重く見た新日本は残りのブラジリア、サンパウロの2大会にルスカの出場を見合せています。
バウンサーの血がそうさせるのか、プロレスラーとしては難しくなってしまったルスカを生かすのは新日本のリング以外にはなく、10月6日、大阪大会に出場。猪木へのリベンジマッチに向けてアクションを起こし始めました。
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