新日本プロレスと全日本プロレスの引き抜き抗争と言えば81年5月のアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス移籍から始まっている感が強いですが、それ以前にも引き抜きがなかった訳ではありません。
前々回、ビル・ロビンソンが新日本から全日本へ移った経緯を書きましたが(76年7月に全日本へ登場)、他にも細かい引き抜きや移籍はありました。
大木金太郎は75年5月まで新日本に上がっていましたが、同年10月には全日本へ引き抜かれて行っています。
大木は73年4月に日本プロレスが崩壊すると他の残党達と一緒に百田家(力道山家)、日本テレビの仲介で全日本プロレスのリングへ。
しかし扱いに不満を持ち同年11月の創立1周年記念ジャイアント・シリーズを最後に全日本から離れ1人韓国に帰りました。
そこに目を着けたのが新日本の新間寿営業本部長。大木を口説き落として新日本のリングに上げ、大木は猪木に挑戦、74年10月10日、蔵前国技館で猪木と大木のNWF世界ヘビー級選手権試合が行われ、13分13秒、猪木がバックドロップからの体固めで勝利。
翌75年3月27日、今度は場所を大木の母国である韓国に移して、ソウル市奨忠体育館で猪木が大木のインターナショナル王座に挑戦。
猪木はアウェイでヒールを意識したキラーぶりを見せ、大木の額を鉄柱に打ち付けて流血させ、流血した額にナックルパンチの連打。
大木の得意技でもある足4の字固めを見せましたが、大木は身体を回転させて場外へ。13分38秒、両者リングアウトとなり大木の防衛。
それから1週間後の4月4日、蔵前国技館での第2回ワールド・リーグ戦開幕戦で公式戦で3度目の一騎討ち。
この試合、何故か試合前に猪木のリングシューズの紐がほどけており(テレビカメラでもしっかり確認出来る)、紐を結ぼうとしたところ突っ込んで来た大木がヘッドバットの奇襲。
リング下に転落した猪木を追って大木は猪木の髪をつかんでヘッドバット連発、猪木は大木のボディにパンチを叩き込みましたが大木の頭突きラッシュを止めることは出来ず。
大木はリングに生還、1分16秒、リングアウト勝ち。結果、このリーグ戦の最中に猪木に大木へのリベンジの機会はなく、内容はともかくスコアの上では1勝1敗1分と完全に五分。
これは最後に大木が「勝ち逃げ」しているのが大きく、馬場がずっと狙っていたインターナショナルのベルトをこのままいけば新日本プロレスに持って行かれることを懸念、大木を外敵として全日本に戻すことを画策。
9月23日、大韓プロレス協会の権五台会長の招きで韓国マット視察に訪れた馬場を大木が待ち構えていて夜中に食事しているところへ挑戦を直談判するというアングルが組まれました。
10月30日、蔵前国技館で馬場vs大木戦が実現。これまでの馬場vs外国人のPWFヘビー級王座を賭けての試合では満員に出来なかった全日本の東京の大会場での興行を超満員札止めにして見せました。(12000人発表)
馬場と大木の試合はノンタイトルの時間無制限1本勝負。ブッチャーに鶴田が挑戦したUSヘビー級選手権試合とのダブルメインイベントの第1試合として行われました。
つまり、タイトルマッチの前のセミファイナル扱い。試合は6分49秒、馬場がランニング・ネックブリーカードロップからの体固めで完勝。猪木が初戦で大木を倒した約半分の時間で仕留めて見せました。
この試合を実況した清水一郎アナウンサーは「新日本プロレスのアントニオ猪木と1勝1敗1分の五分の成績」と強調し三段論法的に馬場の方が猪木より強い、格上であることを暗に示唆。
格下の相手とやるのにタイトルは賭ける必要はなく、ダブルメインイベント第1試合(セミファイナル)で十分、という馬場のえげつなさが見て取れます。
その後大木は76年8月のNWA総会で猪木が3年目にしてようやく加盟が認められたNWAに「馬場の推薦で」一発で「満場一致」で加盟が認められ、弟子のキム・ドクとの韓国師弟コンビで馬場、鶴田組から2度に亘りインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどのメリットを受けています。
そんな中、76年4月2日、川崎市体育館で開幕した第3回ワールド・リーグ戦には2年前の74年5月、全日本プロレスにエース格として来日した元WWWFヘビー級王者、ラテンの魔豹ペドロ・モラレスが新日本に初参戦、しかも短期の特別参加ではなく公式戦に参戦するという新日本ファンにとっては明るいニュースが入って来ました。
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