柔道とプロレスとの関わりは強く、67年2月17日、自身の25歳の誕生日に65年の柔道全日本選手権優勝、坂口征二(明治大学→旭化成)が日本プロレスに入団。
この時は柔道界から反発の声が強く明大柔道部OB会、アントン・ヘーシンクと東京五輪で対戦し敗れた神永昭夫五段などは猛反対に遭いました。
柔道界から見れば、旭化成に勤務しながらまだ現役として、その後はコーチとして後身の指導にあたって欲しい、という希望が強く、ショーであるプロレスに転向するなど罷りならない、と言った言い分だったでしょう。
坂口は馬場と高級すき焼き、しゃぶしゃぶ料理店「銀座らん月」で会食を重ね、「プロレスラーは毎日こんなものを食べているのか」とプロレスラーの収入の多さに魅力を感じプロレス入りしたと笑い話的に語っていますが、当時のプロレスの社会的ステータスを考えれば坂口の選択は納得がいくものでした。しかし、坂口レベルの選手であれば柔道界との楯の繋がりや人間関係は無視することも出来ませんでした。
明大柔道部OB会が坂口のプロレス転向記者会見の場に殴り込みをかけて入団を阻止する、という物騒な噂が流される中、
所属していた旭化成が円満退職を認めた為、坂口は日本プロレス入団記者会見を行ったその足でハワイへ直行し、そのままアメリカ修行に入りました。
73年秋には、64年東京五輪柔道重量級金メダリスト、オランダのヘーシンクが旗揚げ1年経過した全日本プロレスに入団を発表。
日本テレビの潤沢な資金をバックに旗揚げした馬場の全日本プロレスでしたが、思った程の人気は得られず、視聴率も裏番組にTBS「8時だヨ!全員集合」があり、プロ野球シーズンは巨人戦中継がある時は深夜に放送時間帯が追いやられたこともあり、局側の期待には届かず。
そこで日本テレビ主導でヘーシンクのプロレス入りの話が進められました。交渉にあたったのは外国人ミュージシャンのコンサートを手掛けるプロモーター、キョードー東京の嵐田三郎社長です。
既にオランダの国民的英雄で政府の要人となっていたヘーシンクでしたが巨額のファイトマネーにプロレス入りを快諾。
10月に来日したヘーシンクはプロレス転向の記者会見を行い、世田谷の道場でマシオ駒を相手にアルゼンチン・バックブリーカーを披露。
10月9日、蔵前国技館のリングでファンに挨拶をした後、テキサス州アマリロのザ・ファンクスの元で基本的なプロレスムーヴの手解きを受けました。(修行という程のものではないと思料。)
73年11月24日、蔵前国技館でデビュー戦、馬場とのタッグでブルーノ・サンマルチノ、カリプス・ハリケーン組と対戦。
1本目を反則勝ち、2本目はヘーシンクがアルゼンチン・バックブリーカーでハリケーンをギブアップさせ2-0のストレート勝ち。
観客は8500人発表と満員には成らず。柔道の癖が抜け切れないヘーシンクはプロレスファンからの支持を得られず。
ヘーシンクの個性を活かそうと全日本プロレスでは柔道ジャケットマッチを開催。
ゴリラ・モンスーン(74年6月13日東京体育館)、ドン・レオ・ジョナサン(74年11月5日大田区体育館)、カリプス・ハリケーン(75年1月25日横浜文化体育館)の3回開催しましたが膠着が多く、これもヒットしませんでした。
プロレスと柔道は同じ組技系格闘技ながらなかなか双方の魅力を同時に観客が味わうことはこれまで出来てなかったということになります。
ログインしてコメントを確認・投稿する