76年に入ると、年頭の1月7日、東京・日比谷の帝国ホテルで記者会見が行われ、ミュンヘン五輪重量級、無差別級2階級で金メダルを獲得した柔道家、オランダの赤鬼の異名を持つウィリエム・ルスカが「プロ格闘家」に転向し猪木に挑戦表明をしています。
ここで「プロレス対柔道」という大一番が実現することになる訳ですが、日本の格闘技の歴史においてプロレスと柔道との闘いは第二次世界大戦より前の大正時代にまで遡ることになります。
桜井さんが原康史のペンネームで書いていた小説「実録・プロレス対柔道」(1973〜1975年、東京スポーツ新聞社刊)の中に1921年、アメリカで伊藤徳五郎五段、坂井大輔四段ら在米の柔道家や柔道家からプロレスに転向したタロー・ミヤケらを撃破したサンテルが、「日本人柔道家を破った自分こそ真の柔道チャンピオンである、もっと強い日本人柔道家の挑戦を受ける用意がある」
と弟子のヘンリー・ウィーバーと共に来日し、講道館柔道に対戦を挑む、というストーリーがありました。
サンテルはガス灯時代における本物の強豪プロレスラーであり、サンテルが柔道家との戦いにおいて体得した「反り投げ」が後にバックドロップの原型として鉄人ルー・テーズに受け継がれたとか桜井さんの著書以外にも田鶴浜弘さんによっても多数書物が存在します。
講道館の嘉納治五郎館長は「興行であるレスリングと講道館柔道が関わるのは好ましくない」としてサンテルとの試合の禁止を訴えました。
これはやはり、講道館柔道は「教育としての柔道」という立場におり、いわゆる見せ物と一緒にはさせられないという嘉納館長の立場があったからかと思われます。
しかし、講道館からの破門を覚悟で早稲田大学の庄司彦男三段、清水肇三段、永田礼次郎三段、増田宗太郎二段ら若き柔道家達は「レスリングごときに舐められてたまるか!我々講道館柔道こそが最強である」
とサンテルらとの対戦を要望、1921年3月5日、6日の両日に亘り、「日本柔道対西洋相撲」という「異種格闘技戦」が靖国神社相撲場で開催されました。
ちなみにこの3年前の1918年、木村政彦が生まれています。
試合はアメリカにおけるレスリングの「リング」を見よう見まねで作り、その中で行われました。
ルールについては柔道側は当て身、レスラー側は頭部及び首、手足の指への攻撃が禁止されました。
靖国神社相撲場にはこの一戦を見ようと両日とも25000人の大観衆が詰めかけています。
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