83年はアブドーラ・ザ・ブッチャーの来日は7月の1回に終わり、5週間のシリーズながら3週間で帰国させられてしまい、シリーズ最終戦の8月4日、蔵前国技館にはその姿はなく、当初の契約は呆気なく反故にされてしまいました。
84年は1月の新春黄金シリーズと9月のブラディ・ファイト・シリーズの2回来日。1月は6日後楽園ホールで新日本移籍以来、黒い軍団としてパートナーをずっと務めていたバッドニュース・アレンと同士討ちを繰り返し仲間割れ。
1月27日、テレビ生中継の愛知県体育館でシングルマッチが組まれましたが試合は僅か1分15秒、ビール瓶を持ち出してブッチャーの額を攻撃したアレンの反則負け。またしても不完全燃焼な内容と結果に終わりました。
このシリーズは6週間のロングランでしたが、ブッチャーは4週で帰国、シリーズの山場だった2月7日、蔵前国技館、最終戦の2月9日、大阪府立体育会館には出場していません。
シリーズに参加しておきながら、蔵前国技館大会に出場していない、というのは東京での集客を全くあてにされていないということです。
9月に至っては1週間のみ、実際は6日間の参加となり、テレビ登場は9月7日、福岡スポーツセンターの藤波戦(4分33秒、両者フェンスアウト)のみ。
何故こうなってしまったのか?
そもそもブッチャー引き抜きの目的はブッチャーが欲しい訳ではなく、全日本プロレス潰しが目的でした。
ブッチャーが新日本へ移籍した81年は全日本プロレスの経営状態が悪化、外国人選手に支払う源泉所得税の滞納が噂され、日本テレビから役員が出向して来てテコ入れがなされ。日テレ運動部長だった松根光雄氏が82年1月1日付で社長に就任、馬場は代表権のない会長に棚上げされました。
旗揚げ当初から日テレの豊富な資金で豪華外国人選手を集めて興行をしていた全日本は馬場の衰えや鶴田が思ったほどの人気を集められず、集客面、テレビ視聴率でも苦戦を強いられ、NET(テレビ朝日)ワールドプロレスリングの後塵を拝する屈辱を味わいました。
そんな中、77年12月に開催された世界オープン・タッグ選手権が空前のヒット興行となりザ・ファンクスvsブッチャー、ザ・シーク組の血の抗争は大きな話題を集めました。
外国人対決重視のマッチメークとなりましたが、ファンクスやブッチャー、シークのいないシリーズとの客入りの差が激しく、東京の大会場で興行を打つことが暮れの最強タッグ蔵前国技館以外は難しくなっていました。
松根社長は馬場に第一線を退くよう要請したものの、馬場はこれを受け入れることが出来ず。
タイトルマッチも地方での売り興行が増加、おそらくタイトルマッチ開催で売り興行の値段を上げていたと思われ、新日本プロレスとの差は開く一方でした。
81年2月のエキサイト・シリーズに来日したキラー・カール・コックスが帰国後、「オールジャパンは近々クローズするかも知れない、もう一つの猪木の方のカンパニーの方が勢いがある」
とコメントしたことがあるそうです。コックスが参加したシリーズは流山で開幕、2月15日後楽園ホールでは馬場3000試合連続出場突破記念試合第2弾としてハーリー・レイスとのNWA世界戦が組まれました。
その後、テレビ中継のあった会場は飯坂、洞爺湖等で最終戦3月3日、千葉公園体育館でコックスは馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。2-1で負けています。
滅多に日本に来ないコックスが新日本プロレスの業況をどこまで把握していたかは謎ですが、このシリーズ弟分のディック・マードックが一緒に来ていて、半年後には新日本に行ってしまったのでおそらくそのあたりがソースかと思います。
このシリーズはまさに地方の小会場での興行ばかりで、日本プロレス時代は東京体育館、蔵前で馬場とインターナショナル選手権試合を行い、全日本になってからは素顔でも、マスクマンのザ・スピリットとしても日大講堂で試合をしていたコックスが地方の小会場ばかりのサーキットの連続という現状を目の当たりにして全日本の今後に危惧を抱いたとしても、無理からぬ話でした。
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