アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスに移籍する時の条件として新日本側から呈示されたのは、3年契約、年間3シリーズ以上、15週間以上呼ぶというものでした。
これは全日本プロレスに呼ばれていた頻度から考えて当然の話です。日本を主戦場にしていたブッチャーは当時アメリカ本土やカナダではあまり試合をしておらず、他にはプエルトリコで試合をしていた位ですから、日本への依存度が高くなっても仕方ありません。
ブッチャーは72年12月の旗揚げジャイアント・シリーズ第2弾から全日本のレギュラーとなりましたが、73、74、75年(オープン選手権は残留)は2回来日、76年は3回、77年は2回でしたが、
暮れの世界オープン・タッグ選手権でフォークを持ち出してテリー・ファンクの左前腕部をメッタ刺しにした極悪ヒールぶりで人気爆発、78年は4回に増加、79年は5回、80年は4回と年間8シリーズのうち半分以上来日しています。
全日本を離脱する81年も4月末迄に2回来ており、マンネリ化したとは言え、ヒール外国人選手の中心人物に変わりはなく、地方のプロモーターの中には興行を買う条件にブッチャーがいることをマストにしている人も複数いたと聞きます。
ブッチャーが新日本に移って来た時の大義名分は「IWGP参加の為」でしたが、当時の新日本プロレス営業部長だった大塚直樹ジャパンプロレス代表は、猪木に「ブッチャーをIWGPには参加させず、その後のサマー・ファイト・シリーズに呼ぶようにして頂けませんか」と進言しました。
IWGPの後はどうしても集客が落ちる、夏場のサマー・ファイト・シリーズには毎年恒例の長期の北海道巡業もあり、ブッチャーをそこへ投入したいと。
新日本プロレスはスタン・ハンセンを引き抜かれた教訓を生かし、外国人頼みのマッチメークから日本人選手中心の抗争に切り換えました。それが82年でした。
ブッチャーは新日本へ移籍した81年はワンナイト興行1回、2シリーズ9週間の招聘、2年目の82年はワンナイト興行1回、3シリーズ14週と15週には及びませんでしたが、約束は一応は守られました。(外国人は週給でギャラが支払われる)
しかし覇気のない試合と新日本が日本人選手中心のマッチメークに切り換えた為、次に呼ばれる予定だった83年1月の新春黄金シリーズには声がかからず。
ブッチャーの来日は83年7月のサマー・ファイト・シリーズまで間隔が空きましたが、「IWGP後」という大塚の進言は猪木は了承したことになりました。
この時は猪木は6月2日、蔵前国技館でのIWGP優勝決定戦でハルク・ホーガンのアックスボンバーにより失神KO負け。シリーズを全休していました。
猪木欠場も前シリーズに出ていない藤波、シリーズを途中欠場してフリー宣言し、アニマル浜口と行動を共にした長州、最終戦のみ出場のタイガーマスク人気もあり、興行人気は上々でした。
ブッチャーはこのシリーズ、禁断のディック・マードックとのシングルマッチを行い、2回対戦しました。
7月7日、大阪府立体育会館ではノーコンテスト、7月14日、札幌中島体育センターではブッチャーの反則勝ちとなっていますが、やる絶好期を逃した感は強く、大きな話題にはなりませんでした。
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