83年グランド・チャンピオン・カーニバルPART�刑能�戦、この年のグラチャンのフィナーレは8月4日、後楽園ホール大会(観衆3400人発表、超満員、テレビ収録)テリー・ファンクの聖地後楽園登場も残すところ後2回。
メインイベントではテリーと鶴田が日米師弟タッグを結成しタイガー・ジェット・シン、上田馬之助組と対戦。
試合は例によって乱戦となりましたが、鶴田がアメリカの師匠であるテリーへの餞とばかり上田にテキサス・クローバーホールドを決めました。
リング中央でガッチリと入り、上田あわやギブアップかと思われましたが、シンが本部席にあったゴングを叩く木槌を原軍治リングアナウンサーから強引に奪い取って鶴田の喉元を一撃。
さらに止めに入ったレフェリーのジョー樋口に対しても木槌で殴り付けシン、上田組の反則負けとなりました。
テリーはさよならシリーズ最終戦をフォール、ギブアップ勝ちで勝つことは出来ませんでしたがこれでシン、上田との抗争は終了。
次回の本当のラストツアーとなるスーパー・パワー・シリーズでは強敵スタン・ハンセンと最後の決戦となる訳です。
セミファイナルは馬場がアレックス・スミルノフにカウンターの16文キックから河津落としでフォール勝ち。
天龍、石川敬士組vsアジア・タッグ王者チームの阿修羅・原、マイティ井上組は30分時間切れ引き分けとなっています。
仕方ないこととは言え、やはりテリーとシン、上田では試合のリズムも噛み合わず、感情移入がし辛かったのは事実であったかと思います。
新日本プロレスとの興行戦争は札幌中島体育センター大会、先攻の7月12日全日本が7800人(超満員)発表で7月14日、タイガーマスクvs小林邦昭のWWFジュニア・ヘビー級選手権試合を持ってきた新日本が6500人(満員)発表。
中1日というハードな闘いでしたが、札幌中島の通常キャパシティが5000人ということを考慮すると、どちらも満員だったかと思われ、僅差で全日本が上回ったかと考えます。
大阪府立体育会館は新日本が先攻で7月7日、長州vs藤波のWWFインターナショナル・ヘビー級選手権試合、タイガーマスクvs寺西勇のNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権試合の強力カードで猪木は欠場していましたが、9000人超満員発表。7月19日全日本も同じ9000人超満員発表でスコアの上では引き分けですが、テレビで見た感じでは新日本が少し上回っていたように感じました。
最終戦の8月4日も全日本の後楽園ホールと新日本の蔵前国技館が同日同時刻興行となり、興行戦争であることに変わりはありませんが、会場のキャパシティが違うので除外致します。
タイガーマスクを中心としたプロレスブームの渦中、老舗のベースボール・マガジン社からはプロレス誌、デラックス・プロレス、日本スポーツ出版社からはゴング、別冊ゴング、新大阪新聞社のタブロイド紙週刊ファイトに加え、学研系列の子供向け出版社である立風書房からはビッグレスラー、別冊ビッグレスラー、日本スポーツ企画出版社からはエキサイティング・プロレス、別冊エキサイティング・プロレス(83年10月創刊)、さらに東京スポーツ新聞社からはタブロイド紙ザ・プロレス等が既に参入しており、プロレス雑誌(紙)も飽和状態となりました。
そんな中、この年の7月28日、ベースボール・マガジン社が「日刊では浅すぎる、週刊では遅すぎる」をキャッチコピーに週刊プロレスを創刊しています。
第1号の表紙はアニメ原作者の梶原一騎の逮捕でリングネーム使用が厳しくなったタイガーマスクでしたが、8月4日発売の第2号の表紙は引退を目前に控えたテリーでした。
プロレス出版物関係も淘汰と再拡大を繰り返していき、今日に至ることになります。
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