テキサス州コーパスクリスティーの大会の翌日、83年6月16日はテキサス州オースチン・シティコロシアム大会に鶴田のみが出場。
前日UNヘビー級王座を賭けて対戦したホセ・ロザリオと連日のシングル対決(ノンタイトル)でフォール勝ち。テキサスのファンにその強さをアピールしています。
海外ツアー最終日は6月17日、テキサス州ダラス・リユニオン・アリーナ大会でのビッグマッチ。(テレビ収録)
フリッツ・フォン・エリック派のワールドクラスの興行は、通常のテレビマッチはスポーツアトリアム、ビッグマッチはリユニオン・アリーナ、さらに上をいく超ビッグマッチはテキサス・スタジアムで開催するのが通例になっていました。
日本で言えば蔵前国技館(当時)、日本武道館クラスの大会でこの日は18000人の観客を動員。
鶴田はテッド・デビアスの挑戦を受けてUNヘビー級王座の防衛戦を行っています。
4月1日、市原市臨海体育館以来2か月半ぶりの挑戦となったデビアスは鶴田の足に的を絞っての攻撃。
次期NWA世界ヘビー級王者の呼び声が高かったデビアスは足4の字固めを好んで使っており、この日も足4の字狙いを徹底。
しかし鶴田は冷静にこれを見ており、足4字狙いに来たデビアスが頭を屈めた瞬間、下からのスモール・パッケージホールド(首固め)。14分、カウント3が入り、鶴田がデビアスを返り討ちにし6度目のタイトル防衛に成功しています。
もはや、内外でUNの挑戦者に敵なしとなった鶴田は試合後、「ブルーザー・ブロディの保持するインターナショナル・ヘビー級王座奪取に専念する為」76年8月28日、日大講堂でのベルト復活による王座決定戦でジャック・ブリスコを破り、王座獲得して以来、通算7年間保持していたUNヘビー級ベルトを、プロモーターであるフリッツに返上しています。
この間、王座転落は4回(ビル・ロビンソン、ディック・マードック、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ハーリー・レイス)、いずれも短期に奪回しており通算34回防衛。立派な成績でUNから「卒業」しました。
馬場は未来日のキングコング・バンディとPWFヘビー級王座の防衛戦を行いました。バンディは前82年6月6日、テキサス・スタジアムでのフリッツの引退試合の相手を務めた新進気鋭の当時25歳の若手巨漢ヒール。
しかし、キャリアで優る馬場はバンディを寄せ付けず、5分24秒、16文キックからの片エビ固めで完勝し3度目の防衛。
馬場の好みに合いそうで全日本に来るかと思われ、翌84年、馬場が陰でブッキングをしたとされる、幻に終わったUWFのオープニング・シリーズ第2弾にエントリーされましたが新間寿の退陣で来日キャンセル。
その後ダラスを離れてAWAに転戦した際、85年1月に新日本プロレスの顧問に就任した吉原功と大剛鉄之助のブッキングで新日本に初来日しています。
この日のメインイベントはNWA世界ヘビー級王者に返り咲いたばかりのハーリー・レイスがケビン・フォン・エリックと防衛戦。
レイスの再三に亘る反則にケビンのセコンドであるデビッドが業を煮やし乱入、レイスが反則勝ちによる防衛。レイスは試合中、自分からデビッドにチョッカイを出して怒らせ、反則を誘発しており、作戦勝ちでした。
ブロディのダラスでの位置付けはエリック兄弟の頼もしい助っ人。ケリー・フォン・エリックとのタッグで抗争相手であるテリー・ゴディとマイケル・ヘイズ組のザ・ファビュラス・フリーバーズのアメリカン・タッグ王座に挑戦。
ブロディが相方のケリーをリフトアップし、ヘイズに投げつける連係でケリーがヘイズを倒し、ブロディ、ケリー組の王座奪取。このあたりのわかりやすさはアメプロそのものです。この試合は日本でも放送されました。
デビッド・フォン・エリックとジム・ガービンによるテキサス州ヘビー級選手権試合はガービンが反則を使ってデビッドをエビ固めに決め、カウント3が入ったものの、
リング下からガービンの女性マネージャー、プレシャスがデビッドの足を押さえていたことが発覚。判定はノーコンテストになりました。
天龍はケン・マンテルの弟で新日本プロレスに3度来日している(78年8月、79年2月、80年6月)ジョニー・マンテルとシングルで対戦、トップロープからの背面式ダイビング・エルボードロップからの体固めで快勝。
ジョニーはこの時の流れから翌84年7月には全日本に参戦を果たします。
トラ・ヤツこと新日本の谷津嘉章はこの日も前座試合に出場、アーマン・ハッサン、マーク・ボンドとの3人組でキマラ(カマラとも発音、ジャイアント・キマラ1号)と1対3ハンディキャップ戦を行いキマラがスプラッシュでボンドを圧殺。
控室で鶴田と谷津の呉越同舟となるツーショット写真が撮られ、日本の雑誌にも紹介されました。谷津は減量に成功し肌も浅黒く日焼けし精悍さを増していました。
谷津は維新軍として10月には新日本のリングに凱旋しますが、この4年後、鶴田と谷津が五輪コンビとして全日本で活躍することは想像もつきませんでした。
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