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2017年01月15日10:46

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ジャンボ鶴田怪物伝説(306)

83年の全日本プロレスは73年から10年間続いた「チャンピオン・カーニバル」の公式戦形式を中止し、タイトルマッチ中心のグランド・チャンピオン・カーニバルにリニューアル、3月25日からPART�機銑靴泙任鬘厳扈蕕瓩泙韮瓦�月超に亘って開催しています。

5月のスーパー・パワー・シリーズは8月下旬からに順延、7月のサマー・アクション・シリーズは名称が使用されず。

別連載「猪木とビンス」においては新日本プロレス側の観点からこれを書いていますが、今回は馬場と全日本の観点に立ってこれを検証していきたいと思います。

チャンピオン・カーニバルは第1〜3回がトーナメント、第4〜10回が総当たりリーグ戦による優勝形式争い。

毎年これを繰り返しているマンネリ化と、どうしてもトップどころと白星配給係の消化試合が多数出ざるを得ず、興行を買う地方のプロモーターから苦情が来たというのが公式戦形式中止の要因と言われています。

しかし、そういうシリーズであることは買う側も承知している話です。

全日本プロレス側からすれば春のチャンピオン・カーニバルと暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦は看板シリーズであり、ここで儲けなければなりません。

日程的にも短く、精鋭主義の最強タッグはコストもかかり、大きな利益は出にくいものの、5〜6週程度のロングランシリーズでトップ外国人が3人位で員数外国人選手もそれなりに参加しているカーニバルは利益が上がりやすく、馬場は公式戦のカードの良し悪しに関わらず、売り興行の値段を一律に設定していただろうと思われます。

では、それまではこのやり方が通用したのか?となるとこれは通用したと思います。全日本の興行を買うプロモーターにとっては金の成る木であったアブドーラ・ザ・ブッチャーが81年まではいたからです。

ブッチャーは客の呼べる外国人として馬場の切り札でした。そのブッチャーが新日本プロレスに行ってしまい、82年の第10回大会はブルーザー・ブロディがそのポジションに収まりましたがブロディの「ピン」での観客動員力は地方では弱く、この第10回が公式戦形式に見切りを付けざるを得なくなった大会ではないか、と思われます。

さて、もう一つ、この時期に構想発表から2年半を経て、新日本プロレスがIWGPの決勝リーグ戦の開催に乗り出すことが決定しており、それに先んじて手を打つ必要があったからです。

IWGP構想は80年12月13日、東京体育館のリング上で新間寿営業本部長の口から発表されました。

「乱立するタイトルを一本化しリアルワールドチャンピオンを決める」

猪木にとっては、実力日本一、格闘技世界一に次ぐライフワークとなりました。

これは猪木のNWAというより馬場に対する怨念をぶつけたものでした。NWAの加盟プロモーターが全米ローカルテリトリー全盛時代のアメリカマット界においては過半数を占め、「世界最高峰」と言われていた時代、73年と74年の8月に行われたNWA総会で猪木の新日本プロレスは加盟申請をしたものの反対多数で否決。

馬場が自分のシンパのプロモーターに現金を渡して反対に投票するように依頼したという話もありますが、企業防衛としては仕方ない面もあります。

75年8月の3回目の加盟申請の時は猪木と新間は事前にアメリカの弁護士と打ち合わせを行い、「今度、加盟申請を否決したら独占禁止法で訴える」と通告していました。

独占禁止法(アンチトラスト法)の訴訟では48年の発足以来2度裁判で負けているNWAは猪木の加盟(NWAは個人加盟)申請は飲まざるを得ない。

75年総会での加盟申請は最初から可決は決まっていたようなもので猪木はNWA総会に出席せず。

この年、長年NWA会長の座に就いていたサム・マソニックが勇退し後任会長に選ばれたのがジャック・アドキッセン(フリッツ・フォン・エリック)でアドキッセン会長は猪木のNWA加盟に際して、

�’肋譴斑舂匹�し、お互いのテリトリーを侵食せず、共存共栄を図ってやっていくこと。

�∩監�本プロレスに上がっている外国人レスラーは新日本プロレスには上がれない。

�C�木のNWA世界ヘビー級王座への挑戦は1年以上は認めない。

という3つの条件を付けました。これを滞在先のロサンゼルスで聞かされた猪木は「メリットがない」とNWAに対する興味を急速に失い、翌年からは格闘技世界一路線に走ることになります。

NWAの会員メンバーもいつの間にか、坂口と新間になっていました。

しかし、新日本がNWAのメンバーになったことで非加盟時代から新日本に選手をブッキングしていたロサンゼルスのマイク・ラーベル、ニューヨークのビンス・マクマホン・シニアら反主流派と言われたプロモーター達は今まで以上にブッキングがしやすくなったのは事実で、

79年にはフロリダのエディ・グラハムが新日本と接近、モハメド・アリとの試合で7億円とも9億円とも言える負債(テレビ朝日が肩代わり、新日本にはテレ朝から役員が出向し事実上テレ朝の子会社となる)を79年に完済した新日本には全日本に見劣りしないWWFのスーパースター達が大挙して参戦するようになりました。

また、79年4月の第2回MSGシリーズに2年ぶりに来日したスタン・ハンセンが「覚醒」、怪物化していき80年2月8日には東京体育館で猪木にリングアウト勝ちし、NWFヘビー級王座を奪取。自前で育て上げたハンセン、タイガー・ジェット・シンの活躍もありリング内が充実。

この時点で猪木と新間は「世界統一」プランをいけると判断、1年どころか永久に認められそうにないNWA世界ヘビー級王座を見限り、自分達で新しい「権威」を創造すべく動き始めました。
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