76年8月、日本プロレスにあったUN王座が全日本のリングで復活しました。
(UNもインターナショナルも「ヘビー級」が付くようになったのは全日本になってから。日本プロレス時代はインターナショナルになぞらえ、ユナイテッドナショナル選手権と呼ばれていた)
最終保持者は高千穂明久でしたが、馬場は高千穂に「あのベルトをジャンボにやってくれよ」と事前に言われていました。
復活UNヘビー級王座決定戦は8月28日、日大講堂で行われることとなりアメリカ代表にはNWA世界ヘビー級王座から転落したジャック・ブリスコが決定。
日本代表は最終保持者であった高千穂と鶴田がブラック・パワー・シリーズ開幕戦である8月14日、熊谷市民体育館で出場者決定戦が行われると発表されていました。
開幕戦の熊谷大会はプロ野球中継の為、当日午後11時45分(関東地区)からディレイ放送されましたが、放送の中で「出場者決定戦の権利を高千穂が鶴田に譲った」と発表されています。
開幕戦のテレビマッチのセミファイナルで鶴田と高千穂が王座決定戦でない通常のシングルマッチ60分1本勝負で行われるという展開となり、鶴田が回転エビ固めで高千穂を破りました。
高千穂が権利を譲った以上、この同門対決は意味のないものになってしまいましたが、これは高千穂の意地だったかと思います。
決定戦をやっても鶴田に勝つことは許されないなら初めから権利を放棄したと。鶴田は先輩から譲られた権利で王座決定戦に出場、これではみっともいいとは言えないことになります。
鶴田はブリスコを2-1で降しUNヘビー級王座を獲得しました。
76年10月21日、福島市体育館でサムソン・クツワダと組んでジェリーとテッドのオーツ兄弟を破りアジア・タッグ王座を獲得。全日本入団以降初のタイトルを手にしました。
その6日前には元幕内力士だった天龍が全日本プロレス入団記者会見を行っており、馬場、鶴田に次ぐ「第3の男」として注目を集めました。
外様である高千穂は自らのポジションはわきまえていましたが上から大物が入って来るとやはり下がっていかざるを得ないのは屈辱的でした。
77年にはクツワダとのタッグでザ・クルセーダーズ1&2号(ビリー・レッド・ライオン&ディウィ・ロバートソン、ロバートソンは後のミッシング・リンク)、グレート小鹿、大熊元司組を相手にアジア・タッグ王座を防衛しましたが、天龍が凱旋帰国したシリーズの最終戦、6月16日、後楽園ホールで小鹿、大熊組のリマッチを受けて、3本目に額から大流血の末、小鹿のフライング・ニースタンプの前に自らフォール負けし王座転落。
羽田光男(ロッキー)が帰国、さらに元トンガ力士だった福ノ島(プリンス・トンガことキング・ハク)が全日本入り。
相撲協会との軋轢を避けて表向きはフリーでプロレス入りした大ノ海の石川孝志もおり全日本での高千穂のポジションはさらに微妙なものになっていました。
高千穂は馬場にアメリカ遠征に出してくれるように依頼しましたが反対されました。
元子から「あなたがいなくなったら誰が若手を教えるの?」と言われた高千穂は全日本での自分が現役としてより若手のコーチとして必要とされていたことを知り愕然としたそうです。
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