ミラノが即席マスクマンのザ・バラクーダとして全日本プロレスに初めて参戦して来たのが75年1月の新春シリーズ。
全日本にミラノをブッキングしたのはジム・バーネットからオーストラリアの興行権を買ったマーク・ルーインで、ルーインが全日本でレギュラーで呼ばれる一方、全日本からも高千穂明久、サムソン・クツワダが派遣されて交流が図られていました。
バラクーダとしての2回の全日本プロレス参戦の活躍については既に紹介済であり割愛致しますが、大木金太郎が新日本プロレスから全日本に引き抜かれた75年秋、10月30日蔵前国技館での馬場戦を前にした10月18日にミラノはラリー・オーディ(73年10月に全日本に来日、ロン・ミラーとのオーストラリアンズで活躍)、ジョージ・バーンズ(同じく73年6月全日本に来日)と共に馬場がルーインを仲介してブッキングにより韓国へ遠征。
ソウル市でコケラ落としとなった金一文化体育館の記念興行に出場しています。
金一文化体育館は韓国では国民的英雄だった大木に対し、政府と財団の協力によりその栄誉を称えて作られた多目的スポーツ施設でした。
ミラノは大木のインターナショナル王座に挑戦し2-1で敗れています。
馬場との世紀の大一番を前に大木は既に敵から塩を贈られていたことになります。
ミラノとして初めて全日本のリングに上がったのは77年5月27日、福生市民体育館で開幕したNWAチャンピオン・シリーズ。
連載の(1)に書いた天龍の日本デビュー戦の対戦相手を務めたのは既に書いた話ですが、もう1人、デビュー戦ではありませんが、このシリーズ、カンザス、オクラホマ地区で修行し凱旋帰国を果たした羽田光男の凱旋マッチ第1戦の相手も務めています。
開幕戦のメインイベントで羽田は鶴田と組んでバロン・フォン・ラシク、ミラノ組と対戦。
1本目は羽田がブレーンバスターからミラノを体固め、2本目はミラノがジャンピング・パイルドライバーで羽田を体固め。
決勝の3本目はラシクにより額を割られて羽田が大流血、割れた額にブレーンクローをかけられました。ラシクはレフェリーの制止を振り切って羽田を痛め付けて反則負け。
試合は2-1で鶴田、羽田組が勝利を収めましたが内容では羽田は1本目以降はいいところがありませんでした。
日本プロレスの残党の1人だった羽田は身体も大きく、売り出し方によってはそれなりのポジションにいったかと思いますが馬場は外様の羽田を冷遇。
次のサマー・アクション・シリーズから当時日本でブームを巻き起こしていた映画「ロッキー」からロッキー羽田とリングネームを改名しましたが、馬場は発表会見の時にマスコミ陣の前で、
「グロッキー羽田と言われないように頑張れ!」と痛烈な皮肉を言っています。
馬場、鶴田、ザ・デストロイヤー、天龍に次ぐポジションでテレビマッチのメイン、セミに登場したものの完全にジョバー扱い。同年12月に開催された世界オープン・タッグ選手権では天龍との「ハンサム・フレッシュコンビ」でエントリーしましたが天龍の引き立て役に終わりました。
アジア・タッグ王座にも就くことなく、徐々にグレート小鹿、大熊元司、後から全日本に入って来た元大ノ海の石川隆士、佐藤昭雄、国際プロレス崩壊により移籍して来た阿修羅・原、マイティ井上らの後塵を拝してしまい、83年に糖尿病など内臓疾患を患ってからは痩せて精彩を欠き87年に引退。
91年10月に43歳の若さで亡くなっています。
ミラノは翌78年5月のスーパー・パワー・シリーズに来日。国際より移籍のキラー・トーア・カマタが全日本初参戦から1週間で馬場から反則勝ちながらPWFヘビー級王座を獲得(6月1日秋田市立体育館)してファンを驚かせたシリーズですが(6月12日一宮市産業体育館でビル・ロビンソンがカマタを破りベルト移動)、ミラノは6月9日、石川県羽咋市体育館でロビンソンと組んで馬場、鶴田組の持つインターナショナル・タッグ王座に実に10年ぶりに挑戦。
1本目はロビンソンが鶴田をヨーロピアン・クラッチ(欧州式エビ固め)で破り、2本目はロビンソンがロープに飛んでのカウンターのエルボー・スマッシュを鶴田にかわされて場外に転落してリングアウト負け。
ロビンソンはこのエルボー・スマッシュをかわされてからの場外転落によるリングアウト負けを好んで使っており、80年10月17日、盛岡・岩手県営体育館でワフー・マクダニエルと組んで馬場、鶴田組の同王座に挑戦した時もこれで1本取られています。
決勝の3本目は馬場と鶴田のツープラトンによるカウンターのハイキック(ビッグブート)からミラノが馬場に体固めで敗れ、2-1で馬場、鶴田組が王座初防衛に成功しています。
ミラノはこの時43歳、年齢的なものもあり、この時から扱いは落ちていきました。
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