76年12月にCBSソニーから発売された2枚組LPレコード、(カセットテープ)「燃える闘魂」は高田延彦(伸彦)がファン時代に正座して聞いた、と言われる実況音源入りドキュメンタリーアルバムですが、ここでも猪木とカール・ゴッチの師弟愛を感じさせています。
猪木のモノローグでは「『プロレスとはこうなんだ!』ということを教えてくれたのは、やはりゴッチで、ゴッチに出会ってなかったら私のプロレス人生も違ったものになっていたと思います」
(中略)「コブラツイストを決め技に使っていたのですが、これを超えるような技はないか、と、2人で編み出したのが卍固め、という技なんですよね」
ゴッチは「life is movement.movement is life」というお決まりの人生訓から入り「猪木よ、世界の頂点に立つような偉大なレスラーになった時でも『謙虚であれ』と望む」と 互いを思いやる気持ちに満ち溢れていました。
卍固めのルーツについては東スポの桜井康雄氏が「ヨーロッパのカンバーランドスタイルのレスリングの古典技をゴッチが猪木に伝授した」とのたまわっておられましたが、
実際はゴッチは中国系メキシコ人のハン・リーとはウマが合ってよくメキシコに練習に来ており、リーとの練習の中で覚えたメキシコのジャベの一種であったことがわかっています。
新日本プロレスがメキシコUWAと初期から交流を持ち、小柄な選手が多かった新日本の若手が修行の地としてメキシコを訪れたのも元々はゴッチとリーの交流から来たものです。
77年に入るとゴッチの来日は途絶えていきましたが海外修行に出ていた若手の面倒は見ていました。
メキシコに修行に来た小沢正志(キラー・カーン)にモンゴリアン・ギミックを推奨したのは他ならぬゴッチと言われています。
小沢はゴッチのアドバイスで髪を辨髪にしてテムヒン・エル・モンゴルを名乗りモンゴリアンに変身。メキシコからアメリカに渡ってキラー・カーンに改名し出世を遂げています。
78年1月23日、ニューヨークMSGのリングでカルロス・ホセ・エストラーダを飛龍原爆固めで破りWWWFジュニア・ヘビー級王者となり3月に凱旋帰国し、ドラゴンブームを巻き起こした藤波辰巳。
フィニッシュとなった飛龍原爆固め(ドラゴン・スープレックス・ホールド)は40年前近くでは「有り得ない」と言われた危険な感じの投げ技でしたが、藤波はゴッチ道場でダミー人形を使って何度も練習した、とコメントし改めてゴッチのコーチとしての手腕が評価されました。
78年4月にWWWFとの提携路線がスタートした記念に開催されたMSGシリーズにはゴッチの娘婿だった空中正三がミスター空中の名前でレフェリー兼外国人係として帰国し参加しています。
80年1月、藤原喜明が猪木から「おまえいつも頑張ってるから何か褒美をやろうと思うけど何が欲しい?」と聞かれ、「ゴッチさんのところに行かせて下さい」と即答。
フロリダ州オデッサにあったゴッチの自宅兼道場に1か月修行に行き関節技の奥義の伝授を受けました。関節技をイラストにして覚えたというノートは有名です。
82年1月、前年勃発したアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本移籍に始まった全日本プロレスとの引き抜き抗争で年末に最強外国人だったスタン・ハンセンを抜かれ、事実上抗争に敗れた新日本は「ストロングスタイル元年」をキャッチフレーズに掲げて元日の後楽園ホール大会から再スタート。
ゴッチが久しぶりに呼ばれテレビ生中継で藤原とのエキシビションマッチ。年齢は57歳になっていましたが3分27秒、鮮やかなジャーマン・スープレックスを見せてくれました。
メインイベントの猪木vsローラン・ボック戦にも特別サブレフェリーとして登場しています。
翌週の1月8日、後楽園ホールでの新春黄金シリーズ開幕戦にも出場し木戸修をジャーマンで降しており、これが最後の試合となりました。
83年4月21日、蔵前国技館でヨーロッパ遠征から12種類のスープレックスを引っ提げて凱旋帰国した前田日明の帰国第1戦のvsポール・オーンドーフ戦のセコンドとして来日。
この時を最後に新日本とは疎遠になっていましたが、まさかのUWF最高顧問就任。強くなりたい男達のいる場所へ神様は降臨していきました。
ログインしてコメントを確認・投稿する