猪木とカール・ゴッチの師弟関係はフィクションも多少入るものの、プロレスファンに長年イメージ付けられて来た「常識」の一つだったと言っていいでしょう。
69年、日本プロレスが若手のコーチとしてゴッチを招聘、そこへ練習好きとして知られているメインイベンターだった猪木が参加したことでゴッチ教室は大きな注目を集めることになります。
現在も新日本プロレス野毛道場に受け継がれている基礎トレーニングメニューはこの時にゴッチによって考えられたものがベースになっており、器具を使わない基礎体力や瞬発力を養うものが大半でした。
大雑把な括りになりますが結果的にゴッチ教室に積極的参加=新日本移籍、消極的もしくは参加せず=全日本移籍となった訳です。
72年3月、前年暮れに会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを追放、除名処分となった猪木はゴッチに現役選手兼外国人選手のブッカーを依頼しています。
プロレスの仕事がなくハワイで清掃員をしていたゴッチをプロレスの業界に戻したのは国際プロレスの代表だった吉原功で第3回IWAワールド・シリーズに招聘、モンスター・ロシモフ(後のアンドレ)、ビル・ロビンソンと夢の対決を実現させファンを喜ばせました。
その後ゴッチはニューヨークへ行き、レネ・グレイと組んでWWWFタッグ王座に就いていましたが、猪木からオファーがあって直ぐの72年2月1日、MSGでキング・イヤウケア、バロン・シクルナ組に王座を明け渡して3月の新日本の旗揚げ興行までに外国人メンバーをブッキングし、自らも選手として来日しました。
3月6日、大田区体育館での旗揚げ戦は猪木とゴッチの一騎討ちとなり、15分10秒、リバース・スープレックスからの体固めでゴッチが勝利。
「旗揚げ戦でエースが負ける」は当時大きな衝撃を与えました。猪木29歳、ゴッチ47歳。猪木は旗揚げ準備に追われて調整不足という言い訳が成り立ちますがインパクトは大。
旗揚げ戦だからといって弟子に「花を持たせる」ことをしなかったゴッチは我が子を千尋の谷に突き落とす親子獅子になぞらえて美談化され、大いなる師弟愛と絶賛されました。
ゴッチが招聘した外国人選手はいずれも無名の選手ばかり。新日本プロレスが旗揚げされた時に日本プロレスからは「猪木のところに上がった選手は二度と使わない」と全米のプロモーターにお触れが回っており、旗揚げオープニング・シリーズに来日したメンバーは皆、変名をリングネームに使っていた程でした。
アメリカが難しければヨーロッパ、という流れはグレート東郷の暴挙により外国人レスラーを引き揚げさせられた68年の国際プロレスの例に酷似していますが、あのロビンソンを輩出したヨーロッパのマット界からは地味だけど強い選手がたくさんいるというのは定説となっており、ヨーロッパから「ゴッチが強さを認めて推薦してきた」というプロフィールの外国人が多数新日本にやって来ました。
旗揚げ年の72年10月4日、新日本初のビッグマッチとなる蔵前国技館大会はゴッチの実力世界一のベルト、世界ヘビー級選手権(実際はゴッチの個人所有ベルト、かつてゴッチがドン・レオ・ジョナサンを倒して獲得したオハイオ版のAWA世界ヘビー級ベルトとされる)に挑戦。
特別レフェリーにルー・テーズを招いての格式あるタイトル戦は27分19秒、リングアウト勝ちで猪木が勝利を拾い、ベルトを奪取。
猪木は10月9日、広島県立体育館で赤覆面のレッド・ピンパネールを卍固めで破り初防衛に成功した後、翌10日には大阪府立体育会館でゴッチのリターンマッチを受けました。
キーロックの攻防から猪木の一瞬の油断を見逃さなかったゴッチが23分12秒、キーロックにかけられたままエビ固めに丸め込んでフォール勝ち。王座を奪い返しています。
この時の猪木とゴッチは1勝1敗とスコアの上では互角でしたが猪木はリングアウト勝ちでゴッチはフォール勝ちと差が付きました。
この2連戦は東京12チャンネル(テレビ東京)で録画中継され、またこの試合のレフェリーを勤めたセミリタイア状態にあったテーズが猪木とゴッチに刺激を受けて自らも56歳ながら、カムバックの意向を明らかにしています。
旗揚げイヤーの72年は猪木とゴッチにより団体が存続したようなものでしたが、テレビ放送も付かず、地方巡業では不入りが続いた新日本プロレスの資金は底をつきかけていました。
猪木に次いで馬場も7月に抜けた日本プロレスは坂口、大木金太郎が繰り上げエースとなって一気に弱体化しました。
日本プロレスを放送していたNETテレビの三浦甲子二常務は芳の里社長と猪木を別個に呼び、「もう、お前たち、一緒にやれ!」と命令がおり、73年の年が明けると日本プロレスと新日本プロレスの合併案が浮上して来ます。
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