84年7月28日は松戸市運動公園体育館大会(テレビ収録)。最終戦の8月2日蔵前国技館の後に放送される分でした。
メインイベントは猪木、藤波組の師弟タッグがデビッド・シュルツ、バッドニュース・アレン組と対戦。
猪木が7分41秒にシュルツを逆さ押さえ込みで降し日本組の勝利。自分は蔵前では長州に相手を変更し、藤波に対戦を押し付けたシュルツを藤波とのシングル戦前にフォールしてしまうところは猪木らしいと言えます。
セミファイナルは長州、谷津嘉章、小林邦昭組vsダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミス、リック・オリバー組。
長州がリキラリアットでオリバーを体固め。
セミ前はザ・コブラがヘビー級のカネックとのシングルマッチでコブラが前方高角度回転エビ固めでカネックをフォールする金星。
カネックはクイックながらジュニア・ヘビー級のコブラにも負ける扱いの悪さでした。
そのカネックがメキシコで契約しているUWAと全日本プロレスが業務提携をするという記者会見が7月30日、赤坂のキャピトル東急ホテルで行われました。
UWAからはカルロス・マイネス代表と馬場が出席して会見は行われ、UWFのオープニング・シリーズに参戦したグラン浜田がフリーとして次期スーパー・パワー・シリーズに参加することが発表されています。
UWFのオープニング・シリーズに馬場に外国人選手をブッキングして貰った見返りにUWFを退陣した新間寿が馬場とUWAをくっつけたものでした。
この業務提携で全日本のスーパー・パワー・シリーズにはベビー・フェイス、フィッシュマンが来日、翌85年1月にはペーロ・アグアヨ、ブラソ・デ・オロとブラソ・デ・プラタのロス・ブラソス等新日本プロレスでお馴染みだったルチャドール達が多数来日することになりますが、馬場には同じNWAのメンバーにEMLL(現在のCMLL)のサルバトーレ・ルッタロース・カモウ(�契�)がいました。
馬場がUWAを本当に必要としていたか、というとそれは考えにくく、あくまで新日本プロレス潰しの為に新間からの売込を受けたものと思われます。
結局業務提携は短期間で終わり、エースのカネックは全日本に上がることはなく、フィッシュマンは85年10月には新日本へ戻り浜田もこの後日本人選手が飽和状態となる全日本のリングでは本領発揮出来ず、85年1月の激突!オールスター・ウォーズを最後にメキシコに戻りました。
やはり馬場全日本とルチャ・リブレとは縁が薄かったように思います。
その後浜田は88年には娘(メキシコ人の夫人の連れ子)でルチャドールになったソチ浜田が所属していたジャパン女子プロレス(86年8月17日旗揚げ)のコーチとして来日、90年に旗揚げされた新間の長男・新間寿恒が代表を勤めるユニバーサル・プロレスに参戦。
ユニバーサル活動停止後はみちのくプロレスを経て94年には古巣新日本へ約9年ぶりにフリーとして復帰しています。
全日本プロレスでは劇画作家、梶原一騎の了承の元、2代目タイガーマスクのデビューが決定。
その正体はカミカゼ・ミサワのリングネームで3月に越中詩郎(サムライ・シロー)と共にメキシコEMLLに修行に出ていた三沢光晴(当時22歳)でした。
デビュー戦となる8月26日、田園コロシアムを前に7月31日、全日本にとっては最後の蔵前国技館大会となるグランド・チャンピオン・カーニバルPART�靴離螢鵐阿任�披露目が行われました。
83年8月の佐山タイガーマスク引退から僅か1年で全日本に新しいタイガーマスクが誕生、佐山聡は新団体UWFへ参戦と変革を見せた新日本プロレスの内部分裂はさらに大きな地殻変動を起こしていきます。
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