MSGへ猪木が出向いた目的はもう一つ、84年6月14日、蔵前国技館でのIWGP優勝決定戦で不透明決着に終わったハルク・ホーガンとの再戦をビンス・マクマホンと交渉する為でした。
ホーガンは次期ブラディ・ファイト・シリーズに特別参加(9月4日〜20日)が発表されていましたが、最終戦の9月20日、大阪府立体育会館での対戦を打診しています。
猪木の頭の中には6月の蔵前での「ツーベルト!」発言の通り、ホーガンのWWF世界ヘビー級王座とIWGPヘビー級(IWGPについてはタイトル化されてなかったがその場の状況で適当に変わっていたと思われる)のダブル・タイトルマッチの実現であろうと。
しかし、蔵前暴動事件をビンスが知らない訳もなく、これは却下され、交渉は暗礁に乗り上げた状態で猪木は帰国せざるを得ませんでした。
本連載は10年に猪木がWWE殿堂入りをした際に新日本とWWFの蜜月時代について書こうと始めたものですが、連載の冒頭にビンスが猪木を「親父を騙そうとした奴」と評していたことがあり、一体それは何を指して言っているかがわからないままスタートしました。
新日本プロレスはビンス・シニアに多額のブッキング料を支払っており、立会人として来日した時も常にVIP待遇。
逆にビンス時代になってからはブッキングのドタキャンは日常茶飯事で新日本は酷い目に合わされており、何をしてビンスにそう言わせたかと…。
猪木が「なあ、ビンス、今度ブラジルが国家プロジェクトとして政府が協力してくれる一大事業があるんだ、これが当たれば大富豪になれるぞ出資しないかンムフフフフ」と言ったかどうかわかりませんが、多分それはないと思います。
思い当たる節が一つだけあります。79年11月30日、徳島市立体育館と12月6日、蔵前国技館でのボブ・バックランドと猪木のWWFヘビー級王座交代劇の件です。
徳島ではタイガー・ジェット・シンがリングサイドに現れ、気を取られたバックランドが猪木のバックドロップにフォール負け(28分16秒)でベルト移動。
蔵前の再戦では同様にシンが入って来て気を取られた猪木にバックランドが背後からアトミック・ドロップの要領で猪木の股間をトップロープに打ち付けてフォールしカウント3。
バックランドの勝ちが宣せられましたがリング下にいた新間WWF会長がバックランドの急所攻撃を反則とみなして無効試合とし、ベルト移動はなし。(27分19秒)
しかし猪木はこれを潔しとせず王座を返上、12月17日MSGで王座決定戦を行うと発表しましたが結局はバックランドはボビー・ダンカンと「王座決定戦」を行ったとされ、バックランドはダンカン戦の前にはベルトは巻いて来ず、ベルトを持ってリングに上がった新間会長が何やらマイクで観客に説明していました。
結果バックランドはダンカンを回転エビ固めで破り「王座返り咲き」を果たしますが、これはあくまでも日本用のストーリー。
相手を信用してベルトを渡すのはリスクがありますが、ビンスは約束通り蔵前で王座を返さなかった猪木に対して怒っていたのでは、と思います。
ベビーフェイスのバックランドに急所攻撃のフィニッシュもおそらく外国での出来事だからとビンス・シニア側が妥協したに過ぎず、アトミック・ドロップで3つ、が妥当でしょう。
おそらく約束はそこまでだったはず。新間のクレームによる無効試合はビンス・シニアは事前に知らされず、事後承諾と思われます。
何度か書いていますが74年12月2日に鹿児島県立体育館で馬場がジャック・ブリスコに勝ってNWA世界ヘビー級王座を獲得、9日に豊橋市体育館でブリスコが王座奪回。
この年79年10月31日には愛知県体育館でハーリー・レイスを破って馬場が2度目のNWA世界ヘビー級王座獲得、11月7日、尼崎市記念公園体育館でレイスが馬場に勝ち王座奪回。
猪木と新日本プロレスはNWAに加盟しても全く挑戦すら出来ない腹いせに「馬場は1週間NWAからベルトをレンタルしただけ」と痛烈に批判しました。
「何だ、猪木も同じじゃないか!」と馬場と全日本ファンから批判されるのを恐れて新間があのような行為に出たのは想像に難くないですが、決められたことを守らない猪木にビンスが不信感を持っていたのは事実。
全米制圧の大事な時期に大切な商品であるホーガンと猪木がタイトルマッチをやるのはNGと判断されたかと思います。
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