新日本プロレスを襲った激震はまだ収まることはなかったです。
84年6月27日、東京・九段下のホテル・グランドパレスにおいて記者会見が行われ、藤原喜明(当時35歳)と高田伸彦(当時22歳)が所属していた新日本プロレスを退団しUWFへの移籍を発表しています。
藤原はスポーツドリンクと称されるウイスキーをラッパ飲みしながら会見に臨み、「可愛いアキラを日本のプロレス界のエースにするためにやって来た。浦田社長に惚れた。」とコメント。
藤原は49年岩手県北上郡(北上市)出身。ボディビルで身体を鍛え、元日本プロレスの金子武雄が会長を勤める横浜スカイジムの出身で社会人経験を経て72年に旗揚げしたばかりの新日本に入門した生え抜き。
身体が出来ていたこともあり、入門してから僅か3か月後の72年11月12日、和歌山・白浜会館の藤波辰巳戦でデビュー。
75年12月7日、刈谷市体育館で木村たかし(健吾)を破り第2回カール・ゴッチ杯に優勝、短期のヨーロッパへ修行に出発。
しかし、帰国後も前座のポジションに留まりました。ですが猪木の懐刀として76年のパキスタン遠征や78年のヨーロッパ遠征には必ず帯同。その関節技の確かさには定評があり、猪木に一目置かれていた存在でありました。
得意とする関節技の奥義を極めんと、80年1月には単身フロリダ州オデッサのカール・ゴッチの元を訪ね、ゴッチにキャッチスタイルの関節技の手ほどきを受けています。
84年2月3日、札幌中島体育センターで予定されていた藤波vs長州のWWFインターナショナル・ヘビー級選手権試合の試合前、入場してきた長州を鉄パイプで襲撃。
強いけど地味なイメージしかなかった藤原はテロリストの称号を得てこれを機にメインイベンターへの道を歩み始めたばかりでした。
新日本には「強くなりたい」と藤原に教えを乞う若手選手が多数いました。道場で、試合前の会場で藤原にスパーリングでグチャグチャにされながらも心が折れずに向かっていくグループがありました。
それがいつしか、新日本の中ではそのグループが「藤原組」と呼ばれることになったのです。UWFに行った前田日明もその一人でした。
藤原は新日本を退団してUWFへの移籍を決めようとしていた段階で、藤原組の若手にも声をかけていました。
そして、その中で藤原と行動を共にしたのは高田一人だった訳です。
高田は62年横浜市出身、少年時代は野球に明け暮れていましたがテレビで見た猪木の試合に強く感化されて80年に中卒で新日本プロレスに入門。
81年5月9日、焼津市スケートセンターにおける保永昇男戦でデビュー。そのルックスと高い身体能力で猪木の付き人に抜擢され早くからスター候補生でした。
仲野信市、山崎一夫との試合は前座の黄金カードとなり猪木の期待は明らかに大きかったです。
83年8月12日、前日引退表明をしたタイガーマスクの穴を埋めるべくカナダ・カルガリーでの試合に出場。アーサー・フォーリーに回転足折り固めで鮮やかな勝利。期待に見事応えました。
84年1月に開催されたWWFジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦にエントリーされ、不戦勝のみの事実上全敗でしたが新日本のリングに新風を吹き込みました。
4月には新日本所属のままUWFのオープニング・シリーズに参戦。4月19日、蔵前国技館で行われた正規軍vs維新軍の5対5勝ち抜き戦では次峰として維新軍の谷津嘉章を相手に善戦しています。
高田は時期サマー・ファイト・シリーズの7月20日、札幌中島体育センターでダイマイト・キッドが保持するWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦すると新日本からリリースが来ていた為、このタイミングでの移籍はまさに晴天の霹靂のようでした。
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