84年IWGPは5月11日、福岡スポーツセンターで開幕。
リーグ戦参加選手は日本代表が猪木、藤波、マサ齋藤、長州の4人。カナダ代表がアンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター。アメリカ代表がディック・マードック、アドリアン・アドニス、ビッグ・ジョン・スタッド、ケン・パテラ。ヨーロッパ代表がオットー・ワンツ、ビッグ・ジョン・クイン。
全12人による総当たりリーグ戦を行い、1位通過者がシリーズ最終戦6月14日、蔵前国技館において前年度優勝者であるハルク・ホーガンと優勝決定戦を行うこととなります。
ディフェンディング・チャンピオンであり、WWF世界ヘビー級王者でもあるホーガンは先ず開幕戦の福岡から5月18日、広島県立体育館までの1週間参戦した後、アメリカに戻り、6月8日、青森市民体育館から最終戦まで1週間に再び参加するというハードスケジュールでの来日となりました。
今大会は日本代表も4人に増え、当時の新日本ではベストメンバーと言えましたが、坂口のエントリーがなかったのは残念だったと言えます。
軽量級が災いし、第1回大会では白星配給係となっていた中南米代表のカネック以下メキシコ勢は姿を消しました。メキシコ勢は世界的リーグ戦では通用しなかったのと、新日本が提携していたUWAは新間寿が会長を勤めるUWFに選手を送っていたのが要因かと思われます。
アメリカ人であるマスクド・スーパースターはカナダ枠に入れられました。国籍不明ですからどこの枠に入ろうといいですし、アンドレもカナダ人ではありません。
カナダ枠には当初リック・マーテルが来日して入る予定でした。
当時モントリオールで試合をしていたマーテルは新日本には初参戦となるところでしたが、モントリオール地区とは昔から協力関係にあったAWAのオーナーであるバーン・ガニアからマーテルに「鶴田の後のAWA世界ヘビー級王者に」と直々に指名され、新日行きをキャンセルしています。
WWF世界ヘビー級王者となったホーガンは、前年83年までAWAにおり、時の世界王者ニック・ボックウィンクルを毎回後一歩のところまで追い込み、時期AWA世界ヘビー級王者になるのはほぼ決定事項でした。
映画「ロッキー3」のサンダーリップス役で全米に顔が知られたホーガンが王者になればAWAは向こう10年は安泰と言えたでしょう。
しかし、それに待ったをかけたのが病気療養中のビンス・シニアに代わり、WWFの実権を握ったビンスでした。
ミュージシャン出身(ロックバンド、ラッカスのベーシスト)のホーガンとビンスは、ロックコンサートをビジネスモデルとしたパフォーマンス重視のエンターテインメントに重きを置いたプロレスこそ新しい時代のビジネスと考え、ホーガンはそれを担う次世代のタレントとしてWWFへ復帰しました。
ホーガンを失ったガニアは王者交代を画策。当時49歳となっていたニックを倒すのは若いベビーフェイスでなければならない。
ガニアが白羽の矢を立てたのがWWFでも女性人気の高かった28歳のマーテル。
だが、ホーガンにやられっ放しで命からがらベルトを守って来たニックにマーテルが勝ったところでさほどのインパクトはない。
そこでガニアは全日本プロレスの馬場に、鶴田をショートリリーフのチャンピオンとして迎え入れることを考え、打診しました。
この時点でビンスがホーガンを武器に全米制圧に乗り出して来たことに危機感をガニアは抱きました。ビンスに対抗する為にはNWAと手を組む必要がありました。
NWAが加盟プロモーター達の利益を目的とするカルテルであるならば、AWAはガニアがオーナーの1プロモーションに過ぎません。
ビンスが攻めて来たら、真っ先にやられてしまうのはAWAの方であることをガニアは理解していました。
しかし、当時のNWAで景気が良かったのはノースカロライナのクロケット・プロ、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックのワールドクラス・レスリング、ジム・バーネットのNWAジョージア等数えるほど。
総本山と言われたセントルイス、同じ中西部のカンザス一帯はサム・マソニックの引退で求心力を失い、マソニックの腹心だったラリー・マティシックは独立して新しい団体を起こす始末。
ガニアのAWAはNWAのメンバーで交流があったのはWWFのビンス・シニアと83年に亡くなったカナダ・トロントのフランク・タニー位。
何より、長年の商売仇でありシブチンで知られ、ロートルのタレントが多数幅を利かせていたガニアのAWAと好んで手を結ぼうなどと言うプロモーターは全米にはいる訳もありません。
ビンスは息子に牙を剥かれ、タニーは既にこの世の人ではない。誰をNWAとの(少しでも自分に条件のいい)交渉窓口にしよう?
それが金払いの良さでは全米のどのプロモーターにも優る全日本プロレスの馬場だったのです。
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