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2016年02月01日22:04

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ジャンボ鶴田怪物伝説(228)

78年12月1日、後楽園ホールで前年同時期に開催され爆発的人気を呼んだ世界オープン・タッグ選手権を改称した世界最強タッグ決定リーグ戦が開幕。

参加チームはドリーとテリーのザ・ファンクス、馬場、鶴田組、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組の3強に、AWAから全日本初参戦となるAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルがブラックジャック・ランザと組んで出場しています。

これにビル・ロビンソン、国際プロレスより移籍のワイルド・アンガス組、大木金太郎、キム・ドク組の計6チームが参加。前年より3チーム減少しました。

馬場、鶴田組は開幕戦でロビンソン、アンガス組を破る白星発進。

蔵前国技館大会はリーグ戦中盤12月9日に組まれ(テレビ生中継)、ここでファンクスvsブッチャー、シーク組が実現。シークの凶器を奪ったドリーがその凶器でシークの手の甲をメッタ刺しにし反則負け。

馬場、鶴田組はニック、ランザ組と対戦し鶴田がランザを回転エビ固めに降しています。

ドリーの凶器攻撃により手を負傷したシークはこの試合を最後に途中帰国。12月11日、福島市体育館からブッチャーのパートナーとしてキラー・トーア・カマタが参戦。

ブッチャー、シーク組は不戦敗とは成らずブッチャー、カマタ組が星取を引き継ぐ形となりました。

シークの負傷が9日でカマタの参戦が11日で中1日しかないのはあまりに手回しが良すぎる感があり、シークは最初から蔵前までの契約ではなかったかと思われます。

12月13日、秋田県立体育館で鶴田はニックとシングル初対決で30分時間切れ引き分け。

この時期既に馬場とAWAのオーナーであるバーン・ガニアとの話し合いがついており、馬場、鶴田のAWA遠征、鶴田のニックへの挑戦が翌年2月に決定していました。

リーグ戦最終戦は12月15日、札幌中島スポーツセンターで行われ、ファンクスと馬場、鶴田組が対戦。45分時間切れ引き分けとなりましたが馬場、鶴田組が7点で優勝を果たしています。

鶴田にとっては78年はハーリー・レイスとのNWA世界ヘビー級タイトル戦が東スポプロレス大賞年間ベストバウトに選出された意外は特に目立った活躍もない年で、全日本は外国人中心となっていました。

その背景には前年12月15日、蔵前国技館大会を最後に全日本を解雇されたサムソン・クツワダが新団体設立に向けて鶴田に声をかけていたことにあるかと思います。

クツワダは元日本プロレスの岩田浩氏(後にアジア・プロレス代表、力道山OB会代表となる人物)と協力し新団体の設立を画策。

鶴田も乗り気でしたが結果的に馬場にバレてしまい計画は頓挫。

選手のスカウトの手は全日本だけでなく新日本と国際にも伸びていましたが馬場が国際の吉原社長と新日本の永里高平専務(テレビ朝日より出向)と会談を持ち防衛協定が張られました。

馬場への造反が発覚したクツワダは解雇され鶴田は全日本の関連会社G&Jの役員に任命されました。

関連会社と言えど役員(取締役)になれば経営責任の一部は負担することになります。

それより2年前の75年頃、新日本の新間寿営業本部長が鶴田の引き抜きを画策。鶴田を車に乗せてNET(テレビ朝日)の三浦甲子二専務に引き合わせをしています。

鶴田は返事を保留。これは馬場の知るところとなりました。

これを聞いたプロレスマスコミ界のオピニオン・リーダーだった東スポの井上博社長が激怒。新間を呼びつけて

「新間君、何考えてるの!ジャンボはダメだよ!」

と叱責したという話があります。これは新間側から出て来た話であり鶴田も井上社長も既に故人となっているところから裏の取りようはありません。

しかし事実とすれば、車に乗った鶴田にも「その気」はあったと考えるのが普通であり、全日本に就職した鶴田は条件が良ければあっさり移籍してしまうドライな性格の持ち主だったということでしょう。

若手に食事や酒を驕るでもなく、倹約家だった鶴田に馬場は破格の待遇はしていましたが、そう言った部分で心底信用はしておらず、鶴田をエースに据えることなく「善戦マン」のポジションに置き、外国人への依存度が強くなっていきました。

この時期、ファンクスも本拠地だったテキサス州アマリロの興行権をブラックジャック・マリガンとディック・マードックに売却し全日本プロレスの取締役に就任。翌79年あたりから来日回数も増えていきます。
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