78年11月3日、大田原市民体育館で開幕した国際プロレスの吉原社長プロレス生活25周年記念イベント、「日本リーグ争覇戦」に鶴田は決勝トーナメントから参加しています。
日本リーグ争覇戦は、協力関係にあった全日本プロレスからキム・ドク、ミスター・サクラダ(桜田一男)、グレート小鹿、大熊元司、ロッキー羽田、フリーながら実質的に全日本と言っていい石川孝志(隆士)の選手が派遣されています。(予選リーグから出場)
決勝トーナメントには大木金太郎もエントリーされていましたが、棄権しています。(11月28日鶴岡市体育館、30日千葉公園体育館の2大会のみ特別参加)
大木に関しては韓国のスケジュール調整がつかず、という説明が為されましたが自分から見れば格下のラッシャー木村に負けなければならないトーナメントに出ることはプライドが許さず、確信犯的な棄権と思われます。
大木は81年4月のインターナショナル・ヘビー級王座決定トーナメント、7月6日、秋田県田沢湖町大会でのタイガー・ジェット・シンとの試合等を棄権しているのは同じ理由かと推測します。
大木の枠には石川が入りました。
11月25日、蔵前国技館では鶴田は決勝トーナメント1回戦でマイティ井上と対戦。回転エビ固めで2年連続勝利。
R木村はドクに場外でのパイルドライバーからリングアウト勝ち。
11月28日、鶴岡市体育館での準決勝で鶴田はプロフェッサー・タナカに暴走の反則負けを喫し決勝進出は成らず。
R木村はディーン・ホーをパイルドライバーで破り決勝進出。
11月30日、千葉公園体育館での決勝戦はR木村がタナカを11分5秒、バックドロップからの片エビ固めで破り優勝を果たしています。
鶴田は3位決定戦でホーを逆さ押さえ込みに降しました。
しかし、この日本リーグ争覇戦で全日本の旗揚げ以来6年間続いた馬場と吉原社長の協調路線は終焉を迎えています。
9月21日、新日本プロレスの品川プリンスホテル・ゴールドホール大会の控室に吉原社長が姿を現し、猪木と対談。
「自分のプロレス生活25周年なので日本リーグ争覇戦に新日本からも選手を派遣してもらいたい」と要請。話を受けた猪木と新間は「日本マット界の功労者である吉原さんの25周年なので、ウチも協力させて頂きます」とこれを快諾。
山本小鉄、星野勘太郎を派遣する方向で話が進んでいました。しかし、リーグ戦本戦に参加させるとなると、主力選手を貸し出してくれる約束をしている馬場の心象を悪くさせるとの配慮からか吉原社長は丁重にこれを辞退しました。
新日本プロレスも日本リーグ争覇戦と同時期にヒロ・マツダ率いる狼軍団との抗争を主軸としたプレ日本選手権を開催。
狼軍団は頭数不足で新日本にレギュラー参戦していた上田馬之助、マサ斎藤、剛竜馬にセミリタイアしていたサンダー杉山まで引っ張り出してようやく軍団としての体をなしていた感じです。
プレ日本選手権開幕戦の11月17日、後楽園ホールで元国際プロレスのエースだったストロング小林が「自分の恩師である吉原社長の25周年に花を添えたい」と申し出。
小林と吉原社長は74年の小林の退団の経緯から見て険悪な関係でしたが、新日本は11月25日蔵前にS小林と小林邦昭の2人を派遣。
マッチメークにも配慮が為され、S小林はフリーのミスター・ヒトにリングアウト勝ち。小林邦は寺西勇のジャーマンに負け。
この新日本勢の参加が馬場の態度を硬化させました。「吉原さんは何を考えているんだっ!」と激怒したそうです。
国際プロレスと全日本プロレスの双方と親しかったプロレス評論家の菊池孝氏は「吉原社長が馬場に新日本勢が参加することを事前に根回ししておけば、こうはならなかった」と語っていましたが、
吉原社長からすれば、馬場も猪木も日本プロレスの後輩であり、稽古をつけてやった間柄。いちいち馬場の顔色を伺う必要なんてないだろう、と考えたとしても不思議ではなかったです。
吉原社長は全日本とのマッチメークで常に不利な扱いをされており、そろそろ全日本との提携もマンネリ化して行き詰まりを見せていた時期でもあり、新日本の方が交渉相手としてはもっとしんどいのは百も承知の上で団体存続の為になりふり構わず新日本との「禁断の提携」をチョイスしたと考えられます。
ログインしてコメントを確認・投稿する