77年11月25日、前橋市群馬県スポーツセンターから12月1日、和歌山県立体育館まで6戦に亘り行われた全日本プロレスと国際プロレスの全軍対抗戦では、鶴田は11月27日、岩手・宮古ボウルで国際のエース、ラッシャー木村のパイルドライバーにフォール負け。
11月29日、大田区体育館では2年ぶり対戦のマイティ井上を回転エビ固めで破っています。
当時の「馬場が決めた日本人選手の序列」は自分が1番で次が鶴田、R木村、大木金太郎がほぼ横一線で状況に応じ鶴田がやや下に来ることがありました。
その次がキム・ドク、天龍源一郎で、グレート草津、井上、アニマル浜口とグレート小鹿、大熊元司、高千穂明久、サムソン・クツワダが同じ評価グループにいたように思います。
対抗戦は全日本が36点、国際が34点で全日本の勝利に終わりました。
12月2日、後楽園ホールで開幕した世界オープン・タッグ選手権は2年前に開催されたオープン選手権のタッグ版で、馬場の口からは夏頃から既に開催が発表されていました。
76年の暮れ、新日本プロレスの北米タッグ王者チームであった坂口、ストロング小林組が「タッグ日本選手権」の構想をマスコミに対し発表、全日本のインターナショナル・タッグ王者チームだった馬場、鶴田組と国際のIWA世界タッグ王者チームだった草津、井上組に参加を呼び掛けています。
これはおそらく、モハメド・アリ戦を初めとした異種格闘技路線を推進中の猪木に成り代わり、坂口が新間あたりに言わされたものかと推測しますが、協調戦線を敷いていた全日本と国際が話を聞く訳もなく、早々と頓挫しています。
馬場はこの坂口発言を元に、「タッグでも、ウチは日本より世界」というところを新日本に見せつけるべく開催に向け動き始めたかと思われます。
ドリーとテリーのザ・ファンクス、アメリカで敵対関係にあったアブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークを組ませ、ヨーロッパ最強と言われたビル・ロビンソン、ホースト・ホフマン組等が参加。
インターナショナル・タッグ王者チームの大木、ドク組、提携先の国際代表のR木村、草津組も参加。全9チームによる総当たりリーグ戦が行われました。
75年のオープン選手権がマイミクさんのご指摘がありましたように参加選手が多過ぎて星勘定がわかり辛く、途中帰国する選手も多数いたのは事実で、馬場はその点にも触れ、「人数が多ければ、タッグを組ませればいい」と余裕のコメント。
これまで日本でタッグ・リーグ戦が主体のシリーズというのは69年10月の国際プロレスのIWAワールド・タッグシリーズ、70年〜72年にかけて秋に開催された日本プロレスのNWAタッグ・リーグ戦がありました。
特にNWAタッグ・リーグ戦は69年に日本プロレスの放送を開始したNET(テレビ朝日)が放送開始時の先発の日本テレビから日本プロレスに付けられた条件の中にある
「馬場、坂口の試合とワールド・リーグ戦公式戦は放送出来ない」(坂口とワールド・リーグ戦公式戦の放送は後日なし崩し的に放送された)という約束の中でワールド・リーグ戦に代わる目玉リーグ戦を、と要望があり開催されたもので、馬場、猪木組を解体せざるを得ず、70年の第1回では馬場はミツ・ヒライと、猪木は星野勘太郎と組みました。結果、興行は盛り上らず。
やはり、当時はプロレスは1対1のシングルマッチこそ「真剣勝負の醍醐味」という時代でしたから、「タッグマッチが主体のシリーズは興行的に当たらない」ジンクスが出来ていました。
しかし、超一流のメンバーを揃えることで馬場はこれをあっさりとクリア。
開幕戦の12月2日、後楽園ホールのメインでは馬場、鶴田組とブッチャー、シーク組が対戦。ブッチャーがジャンピング・エルボードロップで馬場をフォールしていますが、試合後も執拗に馬場、鶴田に攻撃を加えるブッチャー、シークに対し救援にファンクスが乱入。
しかし、テリーがブッチャー、シークに捕まり、凶器攻撃により、血ダルマにされました。
この時のテリーの「やられっぷり」がテレビ画面に大写しにされ、これによりファンクス人気が爆発、リーグ戦の成功はこの時点で約束されたようなものでした。
開幕戦を黒星発進した馬場、鶴田組でしたがその後は順調に星を重ね、12月10日、仙台・宮城県スポーツセンターではR木村、草津組の国際代表コンビを撃破。
12月14日、大阪府立体育会館でファンクスと45分時間切れ引き分け。
最終戦12月15日、蔵前国技館は12000人(超満員)発表の観客を動員し、1週間前の12月8日新日本の蔵前の9000人発表を大きく上回りました。
最終戦を前にした星取は1位がファンクス、ブッチャー、シーク組の12点。馬場、鶴田組が11点。
セミファイナルの馬場、鶴田組vs大木、ドク組は馬場がドクをランニング・ネックブリーカードロップで降し13点となりメインの結果待ち。
メインの公式戦最終試合、ファンクスvsブッチャー、シーク組はブッチャーがフォークでテリーの左上腕部を刺すというショッキングなシーンが見られました。
試合はシークが凶器でレフェリーのジョー樋口を一撃、14分40秒反則勝ちによりファンクスが優勝。表彰式で目にうっすら涙を浮かべたテリー人気はこの瞬間不動のものとなり、これまで馬場、鶴田の対戦相手かつ鶴田のアメリカの師匠的ポジションでしかなかったファンクスがベビーフェイスの絶対的アイドルとして全日本の主役となりました。
この年、入場テーマ曲「スカイハイ」採用でブームが到来したミル・マスカラスも加え、相対するヒール陣営にはブッチャーが大きな存在感を発揮。全日本マットは外国人天国と変わっていきました。
鶴田は前年76年3月28日、蔵前国技館でのR木村戦に続き、この年も8月25日、田園コロシアムでのマスカラス戦が東スポプロレス大賞年間ベストバウトに選出され、第1回からの74、75年の猪木の連続受賞に肉薄しています。
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