mixiユーザー(id:21258650)

2016年01月12日23:04

2733 view

ジャンボ鶴田怪物伝説(218)

拙書ジャンボ鶴田怪物伝説ですが、私の中ではここまでが「若大将編」と位置付けています。

まだ先は長いですが、一つの区切りとして若大将時代を総括していきたいと思います。

鶴田は72年10月、中央大学在学中に全日本プロレスに「就職」しました。

鶴田がバスケットボールからアマレスに転向したのは中央大学時代で本格的にレスリングに取り組んでから僅か2年足らずでミュンヘン五輪グレコローマンスタイル日本代表に選ばれています。その身体能力とセンスからして既に持っているものが違いました。

72年当時、鶴田程の大物を引っ張って来れた団体のは日本テレビを資金源に持つ馬場の全日本しかなかったです。

全日本の歴史は外部から「既製品の大物を買ってくる」歴史と言っていいかと思います。

馬場自身が読売巨人軍からの転職組であったことも大きな要因の一つでした。

鶴田、アメリカから家族を連れて日本に移住したザ・デストロイヤー、旗揚げ1年後、日本テレビ主導でプロレスに転向した柔道王アントン・ヘーシンク。これが全日本黎明期のトップ4です。

そこには日本テレビの全日本プロレス中継が毎週土曜日午後8時からという厳しい時間帯で放送開始しており、視聴率戦争に勝たなければという思惑が絡みました。

また、土曜日は野球シーズンになると野球中継のある時は放送が(関東地方は)午後11時45分からになるというハンディも抱えていました。

馬場が全日本を旗揚げするに当たり、外国人選手のブッカーをテキサス州アマリロのドリー・ファンク・シニアにしたのは正解でした。

当時のNWA世界ヘビー級王者はドリー・ファンク・ジュニアであり、ファンク・シニアはNWAのメンバーの中でも強い発言力を持っていました。

ニューヨークではブルーノ・サンマルチノの協力を取り付け、アブドーラ・ザ・ブッチャーも「一本釣り」に成功。旗揚げシリーズにはサンマルチノ、テリー・ファンクら大物が集まりました。

10月21日、町田市体育館での前夜祭に続き、翌22日日大講堂で正式に旗揚げ戦を行い、新設された世界ヘビー級王座争奪十番勝負第1戦馬場vsサンマルチノをメインにしますが、これが6100人発表と厳しい入り。

馬場にとっては「こんなはずではなかった」観客動員となりました。

一番の原因は馬場、猪木が分裂して団体が増え、日本プロレスも存在していましたから観客がこれまで1枚のチケットで見られた馬場、猪木、坂口、大木を見るのに三倍の時間とお金が必要になったからでした。

72年の終わりから73年一杯位までが日本プロレス界の冬の時代と言えました。

鶴田の全日本入団はそんな中にあった明るいニュースであり、日本人メンバーが手薄だった全日本にとっては鶴田の即戦力化は最優先課題と言えました。

ファンク・シニアの働きで馬場は毎年8月の定例総会を待たずして翌73年2月、NWAのメンバーに迎えられました。まだ日本プロレスが存在し、芳の里と遠藤幸吉がメンバーだったにも関わらず、です。

馬場、猪木を失った日本プロレスはもはや死に体。アメリカのプロモーター達の切り換えは恐ろしいほどに早かったです。

僅か1年前は馬場に先駆けること半年前に旗揚げした猪木の新日本プロレスについて「猪木の新団体に選手をブッキングしたプロモーターと参加した選手は日本プロレスでは二度と使わない」と「通達」を回していた日本プロレスでしたが。

鶴田はアマリロのファンク道場でプロレスの手解きを受けました。試合のない時は世界王者のドリーも鶴田を積極的に指導しました。

もちろん鶴田の呑み込みは早く、後に天龍がドリーに預けられた際、ドリーから「ジャンボは半年で教えることが何もなくなったよ」と鶴田とのセンスの違いを指摘されていたことを述懐していましたが、バスケットからアマレスであっという間に五輪代表となった天才アスリート鶴田はドリー式のプロレスフォームはすぐにマスターしてしまった訳です。

73年3月25日、22歳の誕生日にエル・タピアというジョバー相手にデビュー戦を2分位で勝利を飾った鶴田はデビュー2か月後の5月20日、ニューメキシコ州アルバカーキでドリーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。

1本目43分でドリーが取り、2本目は60分時間切れ。この試合はドリーが鶴田に「合格」のお墨付きを与えた卒業試験でもありました。

鶴田の実力の程を確かめたドリーはこの4日後の5月24日、カンザス州カンザスシティでハーリー・レイスに敗れ、4年3か月保持した王座を明け渡しました。

6月3日、ファンク・シニアがバースデーパーティーの席上、酒に酔った勢いで仲間のレスラー(ゴードン・ネルソンとされる)と余興でスパーリングをしたところ、心臓発作を起こして54歳の若さで急死。鶴田もこの場に居合わせていました。

鶴田は「4種類のスープレックス」を引っ提げて10月の創立1周年記念ジャイアント・シリーズに凱旋帰国。

10月9日、蔵前国技館で師匠馬場とのタッグでファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。1本目、テリーから鮮やかなジャーマンでフォール勝ち。

2本目はテリーが回転エビ固めで鶴田から取り返し3本目は61分時間切れ引き分け。この一戦で鶴田のプロレスでの成功は約束されたと言っていいでしょう。

この時全日本プロレスは11000人発表の大観衆を集めました。実際は長年日本プロレスのレフェリーを勤めた沖識名の引退興行で旧日プロ勢と日プロコミッショナー事務局だった元東スポの門茂男氏が中心になって結成されたジャパンレスリングユニオンが手売りで相当数のチケットを売り捌いたとされています。

翌74年1月30日には日大講堂で鶴田は早くもレイスに勝ってNWA世界ヘビー級王者となったジャック・ブリスコに挑戦、フロント・スープレックスで1本奪うも2-1で敗退しますが馬場vsドリーのPWF戦とダブルメインの扱いで10500人発表の観客を集めました。

観客動員は尻上がりに伸び、ブリスコ、ドリー、レイスとNWAの現、前、元の3大王者を同時に呼んで見せ、NWA会長のサム・マソニックまで立会人として呼んだ馬場はプロモーターとしての実力を世間に向けてアピールしていきました。

そんな流れに待ったをかけたのが、前年坂口の入団とNETの放送開始で息を吹き返した猪木の新日本プロレスでした。

3月19日、蔵前国技館では国際プロレスを退団した元エースのストロング小林とのNWF世界ヘビー級王座戦を行い伝説の「首で支えるジャーマン」で壮絶な勝利を飾り、一気に話題の中心へ。

この年は猪木、新日本躍進の年で、坂口との同門対決、タイガー・ジェット・シン腕折り事件、さらに10月10日には蔵前で大木もバックドロップで撃破、刺激的な話題をファンに提供し続け、実力日本一の呼び声が高くなりました。

この年猪木は馬場に再三に渡りマスコミを通じて挑戦を表明しています。

12月2日、鹿児島県立体育館で馬場はブリスコを2-1で破り力道山でさえなし得なかった日本人初のNWA世界ヘビー級王座に就きました。

猪木に実力日本一を決めようと言われ続けていた馬場が猪木に対して突き付けた「答え」がこれでした。

12月5日、日大講堂で馬場はNWA世界とPWFヘビー級王座の2冠を賭けてブリスコのリターンマッチを退けました。

鶴田は105kgに減量してケン・マンテルのNWA世界ジュニア・ヘビー級王座に挑戦。1-1から両者リングアウトとなっていますが、鶴田がジュニア挑戦というのも実質的にはかなり無理があり、この年後半は完全に馬場の陰に隠れた感がありました。

12月9日、豊橋市体育館で馬場はブリスコに敗れ王座転落しています。

12月12日蔵前で2度目のストロング小林戦に勝った猪木は翌日、内容証明郵便で馬場に挑戦状を送りつけました。

「テレビ放映権も興行権も全て渡してもいい。立ち給え、馬場君!我々は力道山門下生として日々精進して来たではないか、今こそ戦ってどちらが真の日本一か決めようではないか。」

これに対し馬場の答えは「私はNWAのメンバーであり、非会員の猪木とは戦えない」というもの。もちろんこれは建前に過ぎませんでした。
13 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年01月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31