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2015年11月10日23:50

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新日本プロレス北米選手権考察(33)

猪木、坂口、藤波、長州の新日本プロレス勢が出場した79年12月17日、ニューヨークMSGでは”インクレディブル”ハルク・ホーガンがWWFでのデビュー戦を行っています。

ホーガンは本名テリー・ジーン・ボレアでベーシストからプロレス入りした変わった経歴を持ちフロリダでヒロ・マツダのジャパニーズスタイルの厳しいシゴキを受けた末デビューしローカルテリトリーを転戦。

テレビドラマ超人ハルクにあやかってハルク・ホーガンに改名しWWF入りのチャンスをモノにしています。

対戦相手を勤めたのが元北米ヘビー級王者のテッド・デビアスで、試合は僅か9秒、ホーガンがベアハッグで勝利。

実力者デビアスは木偶の坊だったホーガンのジョバーを余儀なくされました。

半年に亘るデビアスのWWF修行は不本意な結果に終わり、翌80年からはルイジアナ、オクラホマを中心としたビル・ワットが主宰していたMSWAとNWAジョージアに転戦。MSWAでは同団体認定の北米ヘビー級王者となります。

オクラホマ、ルイジアナ地区はワットの前はNWA世界ジュニア・ヘビー級王座を管理していたことで日本にも名前が知られている視覚障がいを持つプロモーター、レロイ・マクガークが仕切っていた地盤で、ワットはマクガークの下でブッカー、マッチメーカーを担当していましたが、79年にマクガークと対立して独立、MSWAを設立しオーナーに収まりました。

デビアスが名前だけの北米ヘビー級王者としてWWFに修行に出た際、アメリカのNWAのプロモーションの中で実際に北米ヘビー級王者を認定していたのはマクガークのテリトリーだけでした。

MSWA認定の北米ヘビー級王者はワットが半ば強引にマクガークから管理権を譲受したもので80年2月にマイク・ジョージに勝ち王者となったデビアスはこれで真のNWAからの流れを汲む北米ヘビー級王者になったのでした。

デビアスは80年3月には全日本プロレスの第8回チャンピオン・カーニバルに来日しています。

80年2月2日、新春黄金シリーズの札幌中島スポーツセンターで、坂口の持つWWF北米ヘビー級王座にバッドニュース・アレンが挑戦しています。

アレンは新日本プロレスの野毛道場で留学生として修行し、ヒール外国人として毎シリーズのようにレギュラー参戦するいわゆる「自前の外国人レスラー」第1号です。

これは現在も新日本に伝わる伝統で今で言うとバッドラック・ファレがそうで、「猪木の道楽で経費は新日持ち」と言われたロス道場出身のカール・アンダーソンなども広い意味ではこのカテゴリに入ります。

前年の躍進ぶりを表すようにこの年の札幌中島は2年ぶりに2連戦となり初日の2月1日はNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者スティーブ・カーンとWWFジュニア・ヘビー級王者藤波がダブルタイトル戦を行い、反則含みながら藤波が2-0で勝ち2冠王者となりました。立会人としてフロリダのエディ・グラハムが来日し藤波を祝福。「ついに新日のリングにNWAの大物プロモーターが来た」と新日本プロレスのファンは喜びました。

2日の大会はノーテレビで坂口は14分2秒、逆エビ固めでアレンを破り初防衛に成功。坂口が巻いていたベルトはパット・パターソンから奪ったベルトとは別物で、新たに日本で製作されたものでした。

この日記の(25)に書いた通り、坂口はこの年、柔道出身のアレンに目をかけて自分のライバルとして北米ヘビー級、北米タッグの両タイトルに頻繁に挑戦させて持ち上げていきます。

2月7日、大阪府立体育会館では坂口、長州組の北米タッグ王座にアレン、マサ齋藤組が挑戦。

当初はアレンとロッキー・ジョンソンの黒人チームが挑戦予定でした。黒い砲弾ジョンソンは70年日本プロレス第1回NWAタッグ・リーグ戦に初来日。

実に10年ぶりの再来日となりましたがバック宙ドロップキック(ダグ・ファーナスが見せていたものに近い)は見事だったものの試合結果は散々でかなり期待外れでした。

今のファンの方にはザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)の父親と言った方がわかりやすいかと思います。

2月5日、愛知県体育館でスタン・ハンセンと組んで猪木、ストロング小林組と対戦。2本目、場外でハンセンのラリアットがジョンソンに誤爆。

ジョンソンはそのまま後頭部を鉄柱にしたたかに打ち付けて失神。リングアウト負けを取られ3本目は試合放棄で退場。

結果シリーズ最終戦を待たずに帰国しています。

坂口、長州組vsアレン、齋藤組の一戦は1本目は9分37秒、日本組の反則勝ち、2本目は3分12秒にアレンが長州を体固め、3本目は3分21秒、長州がアレンを体固め。

2-1で坂口、長州組が6度目の防衛に成功。齋藤は74年4月の第1回ワールド・リーグ戦から77年6月のアジア・チャンピオン・シリーズ迄は日本陣営の助っ人として新日本に参戦。

78年11月のプレ日本選手権からはヒールサイドとして登場し、長州とは何度も対戦。このシリーズを最後にひとまずアメリカに戻りフロリダ、AWA、WWFと転戦。

長州との絆はこの時の数多くの対戦の中から生まれており後に革命軍、維新軍誕生の布石となる訳です。

シリーズ最終戦2月8日、東京体育館では猪木がハンセンのエプロン越しのラリアットを食らい17分12秒、リングアウト負けで4年8か月ぶりにNWFヘビー級王座から転落。

藤波はSカーンのリターンマッチを受け2-1でNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座初防衛を果たしています。

2月27日、蔵前国技館でのウィリー・ウイリアムスとの死闘を3週間後に控えた猪木の王座転落に観客は戦慄を感じ、同時にあまりに強くなっていたハンセンに驚嘆させられました。
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