日本で猪木にNWF世界ヘビー級のベルトを奪われてアメリカに帰国したジョニー・パワーズは翌74年1月31日にオハイオ州クリーブランドでアーニー・ラッドに敗れ北米ヘビー級王座からも転落。
その後はNWFに転戦して来たオックス・ベーカーがラッドを破り王座獲得もラッドが再び奪回に成功。
74年3月18日ニューヨーク州アクロンでパワーズがラッドを倒し執念とも言える9度目の北米ヘビー級王座戴冠。
日本のファンはパワーズと言えば元NWF世界ヘビー級王者のイメージがあまりにも強すぎるかと思いますが、パワーズが同王座に就いていたのは初代と第13代の2回だけです。しかも極短期。
ここであることに気がつかれるかと思います。
つまりパワーズがNWF世界ヘビー級王者になっていた時期と言うのは、団体創設期と猪木にベルトを取られに日本に行った時だけ、でした。
団体の共同オーナー兼エースレスラーだったパワーズとしては記念すべき自団体の初代王者に自分の名前を刻んでおくことと、経営不振に陥ってベルトを新日本プロレスに売却する役割を果たすこと。
これが目的で、後はNWF世界ヘビー級王者は他のテリトリーから転戦して来たレスラーに任せ、自分はリング上ではNo.2の北米ヘビー級王者にとどまり、プロモーター活動に注力していた、ということです。
さてパワーズが9度目の北米ヘビー級王者になってから3日後の3月21日には3月19日、蔵前国技館でストロング小林との世紀の一戦を制し、初防衛に成功した猪木が王者としてクリーブランドにやって来ました。
ここで猪木を迎え打ったのは北米ヘビー級王座から転落したばかりのラッドでした。
猪木にラッドが挑戦したNWF世界ヘビー級選手権試合は60分3本勝負で行われ、1本目は15分15秒、リング中央でのショルダータックルの相討ちにより両者カウントアウト。
2本目は5分17秒、ラッドがカウンターのハイキックから猪木を体固め。
勝ったラッドはベルトを持って控室へ意気揚々と引き上げていきました。
日本ではこのケースでは完全にベルトが移動するケースで、アメリカでもそこは同じかと思われましたが、この時のケースは違いました。
レフェリーが「ラッドは2本奪ってないから勝ちではない」と控室に戻ったラッドを呼び戻し、試合続行を促し始めました。
レフェリーのカウントにより仕方なくリングにラッドが呼び戻されたところで3本目のゴングが鳴りました。
満を持して待っていた猪木はラッドにストンピングのラッシュを見せ、トップロープからのフライング・ニードロップから8分16秒、体固め。
ここで試合終了となり猪木が1-1の引き分けで2度目の防衛に成功という不思議な試合結果となりました。
これはまさにホームタウン・デジションの逆パターンであり、NWF側がベルトを取り返すという気持ちがないことが読み取れます。
おそらく、ベルトは取り返せなかったものの「ラッドは本当は勝っていた」と言う意味のアングルであり、ベルトを譲り受けた猪木がそれを了承しラッドに花を持たせたと思います。
このリベンジマッチが同年11月1日、札幌中島スポーツセンターで行われ、猪木が2- 1でラッドを降し7度目の王座防衛を果たしています。
この連載に前述していますが、このクリーブランドでの興行がNWFの事実上のラストマッチとされている文献があり、4月にパワーズがNWFの経営から撤退したのはまず間違いないでしょう。
ニューヨーク州はビンス・マクマホン・シニアのWWWFが、五大湖地区はデトロイトのザ・シークが、カナダはトロントのフランク・タニーが地盤を引き継いで74年一杯は何とかNWFは有名無実化しながら持ちこたえ翌75年にIWAへ身売り。
74年4月にはWWWFのドン・デヌーチ(デヌーチはNWF世界ヘビー級王者になった経歴があり)が北米ヘビー級王者になり、ジョージ・スチール、スタン・スタージャックに移動。タイトルはWWWFの選手逹によりたらい回しにされ、タイトル戦もペンシルバニア州等東部地区での開催が主体になっています。
NWF北米ヘビー級王座のアメリカでの歴史はここまでですが75年7月10日ニュージャージー州ジャージーシティ・ルーズベルトスタジアムのIWAのビッグマッチにパワーズとの因縁が深いブルドッグ・ブラワーがIWA認定の北米ヘビー級王者として参戦し、マイティ・イゴールと防衛戦を行いノーコンテストに終わっていますが、この王座はパワーズの持っていた王座と同一と考えるのが妥当かと思います。
ちなみにパワーズはこの大会に参戦し、トーマス・マリーンという若手レスラーと対戦。足8の字固めで勝利を収めています。
IWAも75年一杯で活動停止となり、79年1月にパワーズが新日本に来た時の北米ヘビー級ベルトはパワーズの個人所有のベルトになっていました。
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