前年81年5月のアブドーラ・ザ・ブッチャー新日本プロレス移籍に端を発した新日本と全日本プロレスの引き抜き抗争は、年末に来ての新日本の強さの象徴であったスタン・ハンセンの全日本移籍で誰が見ても仕掛けた新日本の逆転負けに終わりました。
ハンセンを奪われ、「怒ったら恐い馬場」を身にしみて味わった新日本の新間寿営業本部長は、引き抜き抗争では事実上の負けを認め、馬場に「停戦」を申し入れています。
新間は、馬場夫妻からも絶大な信頼を置かれていた雑誌ゴング編集人、竹内宏介氏に仲介を依頼し2月7日、都内のホテルで馬場、猪木、新間の三者会談が行われ「選手の引き抜きはやめること」で合意しました。
新春ジャイアント・シリーズ終了後、馬場、鶴田、天龍の3人はアメリカ遠征に出発。
2月18日のカンサス州カンサスシティから3月7日のノースカロライナ州シャーロッテまで3週間に及ぶ異例とも言えるロング・サーキットで日本テレビの放送クルーも同行した大がかりなものとなっています。
2月20日フロリダ州セントピータースバーグ、2月28日ジョージア州アトランタ、3月7日シャーロッテの3大会を放送。
「世界の全日本」をアピールするために松根光雄社長はプロレス中継の老舗の面子にかけて負けじと新日本、テレビ朝日に闘いを挑んでいきました。
実際は海外からの中継では、興行の枠を借りるのが通常でした。今回、佐藤昭雄が松根社長と馬場の密命の元、海外コーディネーターとして手腕を発揮しています。
馬場はプロモーターとしてはフロリダのエディ・グラハムと再び接触を図ることも目的でした。
グラハムの経営するCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ)はフロリダ州タンパ、マイアミビーチ、オーランド、セントピータースバーグ等を中心にローカルテリトリーとしては隆盛を誇り、NWAでは同じ反主流派に属していたニューヨークのビンス・マクマホン・シニア、ロサンゼルスのマイク・ラーベルとも交流していました。
全日本旗揚げからしばらくの間、CWFの共同オーナーであったヒロ・マツダが助っ人参戦していました。
グラハム自身も74年2月に息子のマイクと一緒に全日本に来日、ブッカーとしても全日本と仕事をして来ました。
その背景には当時NWA世界ヘビー級王者だったジャック・ブリスコがフロリダをホームリングにしていた関係で、ブリスコの優先ブッキング権を馬場が掌握する必要があったからです。
馬場の目論見は見事功を奏しこの年の12月にはブリスコを日本に呼んでNWA世界ヘビー級王者になっています。
76年8月のNWA総会で、1年前に加盟が認められた猪木の新日本プロレスが、加盟後1年を経ても猪木のNWF世界ヘビー級王座に「世界」が付いているままだと、新日本の興行ポスターを持ち出して糾弾したのはマツダでした。
(ビンスのWWWFも馬場のPWFも加盟後は世界の二文字を削除している)
77年3月23日、フロリダ州マイアミビーチ・コンベンションセンターでは鶴田がビル・ロビンソンに奪われたUNヘビー級王座を奪回しています。
しかし、ザ・ファンクスがブッカーとして幅を効かせていた全日本にグラハムの入り込む余地はあまりなく、次第に全日本とフロリダは疎遠になっていきました。
78年に入ると、マツダと新日本プロレスが接近。国際プロレスを退団しフリーになった剛竜馬がマツダを頼りフロリダへ飛び、6月9日、ロサンゼルスでカルロス・マタに反則勝ちでWWWFジュニア・ヘビー級王座を防衛した藤波に挑戦表明、マツダもテレビ朝日に登場しました。
同年11月のプレ日本選手権にマツダ自身も新日本のリングに参戦。
翌79年4月にはブリスコが新日本へ参戦して大きな話題を集めました。さらに10月にはダスティ・ローデスが新日本へ。
ローデスは来日前の8月にフロリダで短期間ながらハーリー・レイスを破ってNWA世界ヘビー級王者になっており、新日本にとっては良い手土産になった訳です。
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