上田馬之助は77年1月7日、越谷市体育館で行われた新日本プロレス新春黄金シリーズの開幕戦にタイガー・ジェット・シンに付いて乱入。
メインの猪木vsスタン・ハンセンの試合で猪木を襲撃しました。
翌週の1月14日、福岡九電記念体育館では坂口征二、ストロング小林組の持つ北米タッグ選手権にシンとブルータス・ムルンバ組が挑戦の予定でしたがムルンバに代わり上田がシンと組んで挑戦が決定。
前年8月5日蔵前国技館での乱入から実に5か月を経て上田は新日本のリングで試合を行うこととなりました。
福岡での北米タッグ戦はシンと上田が痛めている小林の左腕を集中攻撃し、ノーコンテスト。
2月2日、大阪府立体育会館で行われた再戦ではまたも小林の左腕を破壊し失神した小林が試合放棄。シン、上田組が王座を奪取。
上田はこのシリーズ、巡業の試合には出ずスポット参戦でした。
シリーズ最終戦2月10日、日本武道館では猪木vsシンのNWFヘビー級選手権試合と坂口vs上田の特別試合が組まれ、観客席へ乱入を繰り返すシン、上田対策として初の場外フェンスが設置されました。
猪木vsシンでは前年8月5日の蔵前が7500人発表と言う厳しい数字となりマンネリ化しつつありましたがこの日の武道館は上田効果もあって11500人(満員)発表の観客を動員。
坂口vs上田戦は3分24秒上田が試合放棄で不完全燃焼に終わりました。
77年4月、新日本プロレスのワールドプロレスリングを放送していたNET(日本教育テレビ)がテレビ朝日(全国朝日放送)に社名を変更。
社名変更を記念して看板番組の一つでもあったワールドプロレスリングも協力し当初予定されていた3月31日、蔵前国技館大会に加え翌4月1日も蔵前大会の開催を追加発表。
新日本プロレスは初の蔵前2連戦となりました。
(翌4月2日も蔵前国技館でセンサク・ムアンスリンvsガッツ石松のプロボクシングWBC世界ライト級タイトル戦がテレ朝で生中継された)
シンと上田は2日目に登場、左肘脱臼により欠場した小林に代わり猪木が坂口との黄金コンビを復活させ北米タッグ王座に挑戦。3本目にシンが特別レフェリーのルー・テーズを殴り、反則負け防衛で猪木、坂口組は王座奪取成らず。
6月のアジア・チャンピオン・シリーズから上田は新日本のシリーズにフル参戦、7月15日、札幌中島スポーツセンターでは坂口、小林組の新日版アジア・タッグ王座にシンと組んで挑み王座奪取。北米と併せて新日のタッグ二冠王となりました。
7月28日、福岡九電記念体育館で坂口、小林組に敗れ北米タッグ王座は失いましたが、シンとタッグを組んだことで上田のヒールとしての人気は爆発。
シンもまた、猪木との抗争がファンに飽きられて来た時期であり上田とのタッグで新日本でのレスラー寿命を延ばしました。
シン、上田の凶悪コンビは新日本プロレスが生み出したヒット商品で、モハメド・アリと猪木の試合で一度落ちた新日本の集客の落ち込みを完全に穴埋めして見せました。
78年1月の新春黄金シリーズに上田は1月13日の岡山武道館から参戦。
前年暮れフロリダで交通事故に遭ったのを契機にそれまで前頭部だけ金色に染めていた頭髪をオール金髪にしました。
「まだら狼」から「金狼」になった訳です。
2月8日、日本武道館でついに念願の猪木とのシングルマッチに漕ぎ着けた上田はリング下に五寸釘ボードを敷き詰めたネールデスマッチを提案。
猪木がこれを受けて立ち日本プロレス史上初の五寸釘を使ったデスマッチとなりました。試合は両者がリング下に落ちることはなく、猪木が上田の左腕をアームブリーカーで痛め付けてKO勝ち。
4月21日、蔵前国技館で開幕したMSGシリーズでは予選トーナメントで凱旋帰国してドラゴンブームを巻き起こしていた藤波辰巳とも対戦、反則負けとなりましたが内容では圧倒しています。
この年8月25日、長岡市厚生会館で開幕したゴールデン・ファイト・シリーズではシンと仲間割れを起こしています。
9月19日、大阪府立体育会館で両者の一騎討ちが組まれ、話題を呼んで9500人(超満員)発表の観客を集めました。実数では府立始まって以来の最高観客動員を記録したと言われています。
試合は特別レフェリーの猪木にシンが暴行を働いて上田の反則勝ちとなりました。両者は2日後の21日品川プリンスホテル・ゴールドホールでの猪木vsシン戦で「復縁」しています。
11月17日、後楽園ホールで開幕のプレ日本選手権ではヒロ・マツダ率いる狼軍団の副将として参戦、開幕戦では山本小鉄を割れたビール瓶で大流血させて勝利。小鉄を欠場、リーグ戦棄権に追い込んでいます。
79年からは坂口との北米ヘビー級王座を巡っての抗争がスタートしましたが、この年から新日本と国際プロレスが提携を開始。
4月9日、後楽園ホールで開幕した国際プロレスのビッグ・チャレンジ・シリーズに上田はマサ齋藤と共に3年ぶりに国際のリングに登場。
4月20日、富山市体育館でラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦し反則負け。
齋藤は1シリーズだけで新日本に戻りましたが、上田は吉原社長に受けた恩を忘れてはおらず、9月から単独で79年の年内一杯、国際にレギュラー参戦しています。
木村のIWA世界ヘビー級王座には9月29日、横浜文化体育館でも挑戦していますがこの時も反則負けで、これが最後の挑戦になりましたので木村はついに上田から1本勝ちを収めることなく終わりました。
10月5日、後楽園ホールでは日本プロレス時代末期にインターナショナル・タッグ王座についたことのある大木金太郎とタッグを組み、マイティ井上、アニマル浜口組のIWA世界タッグ王座に挑戦して大木と仲間割れし試合放棄で負けとなりました。
80年7月に新日本に復帰した上田は、坂口との抗争を再燃させ、7月17日蔵前国技館、25日倉敷市営体育館でシングルで対戦、このシリーズから導入された場外フェンスによるフェンスアウトルールにより蔵前では坂口が、倉敷では上田が反則勝ち。
この時期、既に新日本プロレスのリングではスタン・ハンセンが台頭、アンドレ・ザ・ジャイアント、ダスティ・ローデス、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン等WWFのトップスター達が大挙して来日しており、全日本プロレスと比べて見劣りしていた外国人も遜色ないほど充実、シンと上田の存在感も段々と薄くなって来ていました。
80年10月24日、沖縄・那覇市奥武山(おうのやま)体育館で坂口のWWF北米ヘビー級王座に挑んだ上田は6分49秒、ジャンピング・ニーアタックの前にフォール負け。
10月30日、熊本市体育館でシン、上田組は坂口、長州力組の持つ北米タッグ王座に挑みましたが2-1で負け。
反則含みではありましたが、決勝の3本目は上田が長州のバックドロップの前にフォールを奪われての敗戦でした。
80年11月21日、横浜文化体育館で開幕したMSGタッグ・リーグ戦にシン、上田組はエントリー。
開幕戦でハンセン、ホーガン組と対戦し反則負け。リーグ戦は第4位に終わりました。
81年3月、WWFビッグ・ファイト・シリーズではメキシコ、アメリカで修行しWWFでメインイベンターとなっていたキラー・カーンが凱旋帰国。
上田はカーンの抗争相手にさせられました。
3月13日、福山市体育館では上田の反則勝ち、翌週の20日、福島・会津体育館ではカーンの反則勝ち。
シリーズ最終戦、3月26日、清水市鈴与記念体育館のメインで猪木、カーン組vsシン、上田組が組まれました。
試合は僅か49秒、カーンのアルゼンチン・バックブリーカーにより上田のギブアップ負け。
上田の新日本におけるポジションはもはや噛ませ犬であり、そんな矢先、アブドーラ・ザ・ブッチャーが全日本から移籍。
シンは7月に全日本へ闘いの場を移しました。
もはや自分の居場所は新日本にはないと判断した上田は実に8年という長い歳月を経て、かつて一時籍を置いた全日本にヒールとして外国人側から参戦することになりました。
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